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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第28主日のミサ



南相馬市鎮魂復興市民植樹祭。5年前の第一回のときも参加しました。
あいにくの雨でしたが、5年前に比べていろいろ改良されていた面もあり、参加できてよかったです。

●年間第28主日
 イザヤ25・6-10a/フィリピ4・12-14, 19-20/マタイ22・1-14
     カトリック原町教会にて
 ホミリア
 昨日は、南相馬市鎮魂復興市民植樹祭に行って来ました。原町区雫(しどけ)という、海岸に近い場所で行われました。津波被害にあったところにはコンクリートで固めた巨大な防潮堤が国によって作られていますが、それよりもその土地にもともと生えているような木、根を深く張るいろいろな木々に覆われた森の防潮堤のほうが津波被害を小さくできる、という考えに基づいていて、植樹祭も5回目になります。50年100年後の人々のいのちを守るために、土を盛って作られた土手に、今、そういう木を植えていこう、ということで、2,000〜2,500人の人が集まりました。法螺貝の音に合わせて、海に向かって黙祷を捧げた後、合計30,000本の木の苗を植えました。天気予報は曇りでしたが、実際には雨が降り続き、参加者はずぶ濡れになりながら、苗を植えました。足元の地面はぬかるんでいて、皆、泥んこになりました。

 帰りにふと、今日の福音の箇所を思い出し、ここで神の国の宴に招かれたらどうなるだろうと思ってしまいました。あまりにひどい泥んこです。礼服を着ていないと叱られてしまうのだろうか。いや神はこの、びしょ濡れ、泥んこになった人々をこそ受け入れてくださるのではないか。どうでしょう?
 今日の福音はやはりあまりにも無理がありますね。通りに出て行って、見かけた人は誰でも集めてきた、というのに、その中の一人が礼服を着ていないといって、叱られてしまう、というのは、ありえないような話です。それはたぶん、前半と後半が本来関係ない別々の話で、マタイが結びつけたからでしょう。無理して全体をまとめて考えるよりも、まずは別々に味わうことが大切だと思います。

 前半は神の国への招きです。
 無条件にすべての人が、神の国に、神の救いに招かれている。特に「あんな人はだめだ、人間的に見て価値がない、劣っている」、そう思われている人にこそ神はご自分の救いを差し出していてくださる。それは実際にイエスが活動していた時に起こったことでした。当時の宗教的なエリートたちはイエスの呼びかけに答えませんでした。今日の福音で言えば、婚宴に招かれたのに、来ようとしなかった人々の姿です。そして実際にイエスの呼びかけを受け入れたのは、無学で貧しい人々でした。その人々にこそ神の救いがもたらされる。「貧しい人は幸い。神の国はあなたがたのもの」。どんな人も招かれている、というのがこの神の国の喜びの宴の特徴です。前半のたとえ話はそのことを語っています。

 神の国は人間の力、人間の努力、人間の功績によるのでなく、神が恵みとして、無償で与えてくださるもの。圧倒的な神の愛によってもたらされるものなのだ。これはキリスト教の確信です。
 キリスト教はこの神の恵みを強調する宗教です。自力本願・他力本願という言葉がありますが、そういう言い方をするなら、まったくの他力本願です。人間が正しいことをしたから神が救ってくださるというのではなく、神が罪びとである人間をいつくしんで、その救いのためにひとり子イエスを遣わし、十字架の死にいたるまで与え尽くされた。そこに救いがある、と信じるのがわたしたちの信仰です。

 でも一方ではキリスト教は、人間がどう生きるかにとことんこだわる宗教です。全力を尽くして神を大切にし、人を大切にして生きる。それが人間の生きる道で、そう生きなければならない。神を忘れ、人を軽んじるような生き方にははっきりとNoというのです。これも大切な点です。今日の福音の後半で問われる「礼服」とはその生き方のことです。神の無償の招きにふさわしく答えることが求められるのです。

 二つのことは人間の頭で論理的に結びつけるのはむずかしいです。人間の努力よりも神の恵みが大切だというなら、「じゃあどのように生きてもいいではないか」という考えに陥ります。でも逆に、やっぱりどう生きるかのほうが問われるというのであれば、神の恵み、神の愛を見失うことにもなりかねません。実はキリスト教は2000年にわたってそんな議論を繰り返してきたところがあって、いまだにきちんと説明ができていない。でも問題は人間の言葉による説明じゃないのです。

 神の救いというのは、親の愛のようなもの。親は子どもに一番いいものを与え続ける。その子がいい子だからとか、悪い子だからではなく。神はまさに「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方なのです。
 と同時に親は子どもによく生きてほしい。経済的に安定して、いい生活をしてほしいというようなことだけでなく、正しい生き方をして、できれば人の役に立つ人間になってほしい。わたしたちはそういう親の思いの中で生きてきたのです。いや、人間の親は必ずしもそうじゃないこともあるかもしれませんが、神とはそういう方。あふれる恵みを注ぎながら、その恵みにふさわしい生き方を返してくれることを待っている。その神の心を知る。
 そのためにわたしたちは聖書を読み、そのためにわたしたちは今日もミサにあずかっているのです。


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