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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第29主日のミサ



日曜日の夜、カリタス南相馬で芋煮を作りました。
福島風の芋煮は味噌仕立てて、豚肉が入っています。
ちなみに山形風は醤油味で牛肉入りのようです。
これはもちろん福島風!おいしかったです。

●年間第29主日、世界宣教の日
 聖書箇所:イザヤ45・1、4-6/一テサロニケ1・1-5b/マタイ22・15-21
      カトリック原町教会にて
 ホミリア
 千葉で働いていたとき、千葉市の牧師会という集まりに入れてもらいました。カトリックの司祭が入るのは、わたしが初めてということでした。毎月牧師たちの集まりがあり、会場は持ち回り、講話をするのも持ち回りでした。あるとき、今のカトリック教会についての話を頼まれ、第二バチカン公会議後のカトリック教会の考え方や実践についてお話ししました。その時の会場は「純福音教会」というところでした。韓国系のプロテスタントの教会で、カトリックとはかなり違った雰囲気の教会です。牧師先生は韓国人でした。その方がこう言いました。「韓国では、カトリック教会は、カトリック信者以外にも信頼されています。カトリック教会は『人間を守る』と考えられているのです」それを聞いて、わたしはキム・スファン枢機卿のことを思い浮かべました。

 キム・スファン枢機卿はソウル教区の大司教でした。46歳という若さで枢機卿になられ、1998年までソウル教区の大司教を勤め、2009年に86歳で亡くなられました。
 そのキム枢機卿の有名なエピソードがあります。
 1970年代〜80年代、韓国は軍事独裁政権の時代でした。民主化を求める学生たちは次々と逮捕され、投獄され、拷問を受けたりしていました。そういう学生たちがソウルにある明洞(ミョンドン)大聖堂に逃げ込んで来ました。ソウル教区のカテドラルです。その学生たちを追って、警官隊がやってきました。その前にキム枢機卿は立ちはだかって、こう言いました。「あなたたちを教会の中に入らせるわけにはいかない。もし入るというならわたしを押し倒して入りなさい。わたしの後には何十人もの司祭たちがいるからそれも倒して入りなさい。その司祭たちを倒したら、その後ろには何百人ものシスターがいるから、それをみんな倒して入りなさい」警官隊は、その言葉を聞いて教会に入ることを諦め、帰っていったそうです。
 その時代、カトリック教会はそうやって民主化運動の活動家を守り、それが社会の中で大きな信頼をえるようになったのです。韓国では今や10パーセント以上の人がカトリックになっていますが、その一つの理由は、「教会は人間を守る」という信頼があった、社会が不安定で、何を信じていいかわからない中で、カトリック教会への信頼が強くなっていったそうです。

 今日の福音は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という有名な言葉です。政治や社会の問題と宗教の問題は別であり、宗教が政治の問題に関わったり、宗教者が政治的な発言をすることはよくない。そういうことを今でも言われたりします。
 イエスの言葉はそういうことでしょうか?
 問題は当時のローマ帝国の植民地になっていたバレスチナのユダヤ人のローマ帝国への納税という問題でした。ユダヤ人は本当の支配者は神だけと考えていて、神が立てたユダヤ人の王なら認めるが、ローマ皇帝の支配は認められないと考えていました。それは神が王であることと相入れないと考えたのです。ですから宗教的信念としては、ロー皇帝に税金など納めるべきではない。しかしもちろん、現実には納めざるを得なかったのです。イエスにこの納税の問題を突きつけたのは、もしイエスがローマ皇帝への納税を認めれば、神の主権を認めないことになり、もし納税を認めなければ、ローマ帝国への反逆者として訴えることができる。どちらを答えても、イエスをおとしめることができる、と考えたわけです。

 イエスは納税に使うローマのデナリオン銀貨を持って来させ、そこに刻まれているローマ皇帝の肖像と銘を確認させた上で、こう言いました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」皇帝のものは皇帝に、だけなら単に納税を認めただけのことでしょう。しかし、「神のものは神に」と言ったときに、本当に何が神のものか、あなたがたは何を神のものとして尊重しようとしているのか、ということをイエスは問いかけたのではないかと思います。
 神殿での宗教儀式や細かい清めの律法を守ること。それが「神のもの」だと思っていた人は多かったでしょう。サドカイ派やファリサイ派はそうでした。でもイエスにとっては違いました。目の前に人々の苦しみ、貧しさ、辛さ、そのすべては神がもっとも心にかけていること。それこそ「神のもの」でした。
 こういう考えがあります。神がご自分に似せて、ご自分にかたどって造られたのが人間です。皇帝の像が刻まれているのがデナリオン銀貨でしたが、ならば神の像は人間に刻まれている。その人間は神のもので、神にだけ属するもの。そう考えるならば、宗教とは特別な「宗教の領域」と閉じこもっていればいいはずはないのです。

 そのような教会の姿勢をはっきりを示したのが、第二バチカン公会議の『現代世界憲章』の冒頭の言葉です。
 「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事がらで、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない」
 日本の戦後70年にあたっての司教団の平和メッセージがあります。2015年に発表されたものです。その中の言葉に「教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙できない」とあります。教会は、司教団は好んで政治の問題に関わろうとしているのではありません。人間の尊厳といのちに関わる問題として、平和や憲法や原発について発言しているのです。それはすべて「人間を守る」ためです。

 何を本当に神のものだと思っているか、イエスは今日もわたしたちに問いかけています。


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