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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第30主日のミサ



Hさんの畑で採れたハヤトウリをたくさんいただきました。
漬物にするのがよいというので、三五八漬(さごはちづけ)にしたら大好評でした。
三五八は福島・山形・秋田に古くから伝わる麹漬けです。
というわけで、いつもの説教メモですが、こちらもどうぞ。

●年間第30主日
 聖書箇所:出エジプト22・20-26/一テサロニケ1・5c-10/マタイ22・34-40
   カトリック原町教会にて
 ホミリア
 旧約聖書を見ると、律法というものはすべて、紀元前13世紀に神がモーセをとおして与えたものという形になっています。出エジプト記・レビ記・民数記・申命記にたくさんの掟があり、誰かがその数を数えたら600以上あったと言われます。ユダヤ人の律法学者たちは、一つ一つの律法をさらに細かく厳密に規定していくことに精力を注ぎましたが、同時に律法の中心には何があるか、本当に何が神の望みであり、もっとも大切な掟なのか、そのこともずっと考えてきたようです。そういう中で最も大切な掟が明らかになってきました。イエスの時代はモーセよりも1000年以上後の時代ですが、その一つの結論が今日の福音の2つの掟の話です。
 「神を愛すること」「隣人を愛すること」これが一番大切な掟です。日本語で「愛する」という言葉が「男女の愛」のような感情的な面を強く感じさせてしまうとしたら、「神を大切にし、隣人を大切にする」と言い換えてもいいでしょう。今日のイエスの言葉ははっきりとこの二つの掟が最も重要である、と教えていますが、それはイエスだけの考えでなく、ある程度まで当時の律法学者の共通理解でもあったようです。マタイ福音書はイエスの言葉に対する律法学者の反応を記していませんが、マルコではイエスの言葉に律法学者も賛同していますし、ルカ10章では、この二つの掟を語るのは律法学者のほうです。

 一方、現代の聖書学者は、すべての律法が、モーセをとおして与えられたように書かれていても、実際には、モーセの時代から始まって何百年もの時間をかけて、徐々に今の旧約聖書の大きな律法集が出来上がってきたと考えています。その中でもっとも古く、モーセの時代に遡れるかもしれないのは、出エジプト記20章22節から23章までの律法です。新共同訳聖書では「契約の書」をいう小見出しがつけられています。今日の第一朗読はそこから取られていて、別の角度から、律法の核心にあるものを知ることができます。
 「寄留者を虐待してはならない」「寡婦や孤児を苦しめてはならない」「貧しい人を苦しめてはならない」ということがそこで言われています。
 「寄留者」というのは今なら難民や移民と言われる人たちですね。それを大切にするのは、「あなたたちはエジプトの国で寄留者だったから」と言われます。あなたたちも外国で暮らしていたつらい経験があるのだから、その人たちの苦しみがわかるはずだ、ということですね。とても説得力がある言葉です。

 次に出てくる「寡婦」は夫を失った女性、「孤児」は親を失った子どものこと。どちらも古代ユダヤの社会の中で、自分を守ってくれる人のいない、一番弱い立場の人々でした。その寡婦や孤児、そして貧しい人を苦しめてはならない、ということの理由として、「彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」と言われています。これは出エジプト記で、神が最初にモーセに声をかける場面を思い出させます。
 7「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地・・・へ彼らを導き上る。9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 エジプトの奴隷状態からの解放というイスラエルの民の根本的な救いの体験、神との出会いの体験の根本には、「神が苦しむ人の叫び声を聞く」ということがあったのです。その神の救いを、神との出会いを体験したのなら、あなたがたも弱い立場の人々、貧しい人々の叫びに耳を閉ざすことはできないはずだ。これもすごい説得力がありますね。

 聖書の掟のすべての中心に「神と隣人を大切にすること」があります。そして、そのすべての律法の根拠には神の救いの業があるのです。すべての人を愛し、すべての人を救おうとし、だから最も弱い立場の人に目を注ぎ、最も苦しむ人の叫びに耳を傾ける神の姿が律法のすべての文字の背後にあると言ってもいいでしょう。それだからこそ、神を大切にし、隣人を大切にしなければならないのです。
 このいつくしみ深い、愛である神にわたしたちはどこで出会ったでしょうか。ある人は幼い時からの親や周りの人の愛をとおして、この神の愛を受け取ったと感じるかもしれません。ある人はどうしようもない苦しみの中で神の救いの御手に気づいたという体験があるかもしれません。ある人は真っ暗闇の中で、まことの光であるキリストに出会ったのかもしれません。この神の愛といつくしみを本当に深く受け取ること、そこからすべてが始まるのです。

 キリシタン時代の人々はこの神の人間に対する無条件の愛を「ゴタイセツ」と訳しました。「デウスのゴタイセツ」。本当に神はわたしたちすべてを大切に思ってくださる。だからわたしたちはそれに応えて精一杯、神を大切にし、人を大切にして生きていこう。今日もわたしたちはこのミサをとおして、この神のゴタイセツを深く味わい、そのゴタイセツに結ばれ、そこから神と隣人を大切にして生きる力をいただいていくのです。




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