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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第31主日のミサ



カリタス南相馬で柿を取りに行きました。1本の木から数百個の柿が取れました。
これは渋柿なので、吊るして干し柿を作ります。
わたしは皮むきには参加しませんでしたが、ボランティアの皆さんも手伝ってくださって皮むきも無事完了とのこと。
今はこんな感じです。

さて、11月第一日曜日は、死者の月の合同追悼ミサ。

●年間第31主日
 聖書箇所:マラキ1・14b~2・2b, 8-10/一テサロニケ2・7b-9, 13/マタイ23・1-12
   20171105カトリック原町教会にて
 ホミリア
 司祭になってから、多くの方々の臨終や葬儀にかかわってきましたが、身近な人の死を身近に体験したのは、わたしにとっては、自分の父の死が初めてでした。今から20年前のことです。父はアルツハイマーでしたが、母一人で見ていて、たいへんな状態になりました。共倒れになる危険を感じて、一時的に預かってもらった施設では、ドアの鍵を力づくで壊してしまい、そこにもいられなくなりました。父を預けられる場所は、精神科の病院の閉鎖病棟しかありませんでした。そこに入院して、父に合う薬を調整してもらって、落ち着いてきたので退院しました。年末年始は家で過ごすことができました。お正月は子どもや孫、親戚も訪ねて来てくれて、父はとてもうれしそうでした。しかし、お正月が過ぎ、人がいなくなるとまた不安定になっていきました。家を出て徘徊しているのを探して見つけ、「お父さん、家に帰ろう」と言っても、たぶんそのときはわたしが息子だということも分からなくなっていたのでしょう。持っていた棒で、わたしのことを追い払おうとするのです。わたしは子どものころから思い出してみても、父に叩かれたという記憶がありません。それですごくショックでした。もう一度入院してもらって、しばらくしたら落ち着くだろう、そうしたら家に帰れるだろうと思って再入院させることになりました。しかし、父は二度目の入院のあと、病院で風邪を引き、あっという間に亡くなってしまいました。

 本当にあれで良かったのか、わたしとしてはもっとできることがあったのではないか、いろいろ考えてしまいました。父が亡くなった翌日の夜中、わたしはふと目を醒ましました。すると幼いときからの父との思い出が走馬灯のようによみがえってきました。本当に「走馬灯のよう」という言葉のとおり、次から次へとたくさんの思い出。なぜか、その思い出はすべてが良い思い出でした。悪い思い出は何も出てこないのです。そのときわたしは「父はいなくなったのではない。今もわたしと一緒にいる。もう目で見ることも、手で触れることもできないけれど、これまで以上に近くにいる」と感じたのです。
 それまで他人の葬儀で、偉そうに「死を超えるいのち」とか「復活の希望」とか語ってきましたが、実感として感じることができたのは、このときからです。亡くなった人はいなくなるのではないのです。むしろ違う形でわたしとともにいてくれる。もっと近くにいてくれる。最終的に神さまのもとで再会できる、わたしはそう信じるようになりました。

 さて、今日の福音はイエスがファリサイ派や律法学者を批判する言葉です。その批判の内容は、結局のところ、彼らが「言うだけで実行しない」ということと、「することは、すべて人に見せるため」ということでした。
 先週の福音を思い出しましょう。「全力を尽くして神を大切にし、隣人を自分のように大切にする」これがもっとも大切な掟であるとイエスは言いました。ファリサイ派の人も反対できなかったことでしょう。違いは、その掟を本気で生きるかどうかです。
 十字架に向かう中で、イエスはこの神への愛と人への愛を貫きました。徹底的に神に信頼し、徹底的に人を愛し抜きました。その信頼と愛は、肉体の死によって断ち切られるようなものではなかった。死を超えて、イエスは神のもとに行き、イエスの神への愛、人への愛は、神のもとで完成された。死を超えて、イエスは神の永遠のいのちを生きる方となった。そして時間と空間を超えて、すべての人とともにいてくださる方となった。特に貧しい人、苦しむすべての人とともにいて、支えてくださる方となった。イエスはこのようにして死に打ち勝ち、神のいのちを生きる道を切り開かれたと信じること、これが復活の信仰です。

 そしてわたしたちがこのイエスの跡に従って歩むなら、わたしたちの人生も死によって終わる人生ではなく、死を超えて神のもとに行く人生になるのだ。もちろんわたしたちは皆、不完全な人間です。わたしたちの愛はイエスの足元にも及びません。それでもわたしたちの歩みがイエスの十字架の歩みと、イエスの愛とどこかで結ばれているなら、イエスの復活のいのちにもあずかることができる。わたしたちの歩みも死で終わる歩みではなく、死を超えて神のもとで完成する。これがわたしたちの希望です。
 「愛は決して滅びない」とパウロは言います。(一コリント13・8)すべては過ぎ去ります。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」。何もかも、滅んで行くというのです。それでも廃れないもの、過ぎ去らないもの、滅びないものがある。それは愛だとパウロは力説しています。「愛は決して滅びない」これがわたしたちの信仰と希望の言葉です。

 わたしたちは今日、特別に亡くなった方々のことを思ってこのミサに集まっています。家族、友人、親しかった人。人生において特別なかたちでかかわった人。その人々が神のもとで永遠の幸せにあずかれるようにと祈ります。そしてその方々と地上にいるわたしたちの愛のつながりは決してなくならず、いつかわたしたちは神のもとで再会の喜びを味わうことができる、その希望と信頼を持って、今日のミサをささげたいと思います。





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