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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第32主日のミサ 山形地区信徒大会@新庄教会



カトリック山形地区の信徒大会に招かれて、『いのちへのまなざし』についての講話をしてきました。
会場はカトリック新庄教会。ここはおおぜいいるフィリピン人信徒のために7年前に作られた教会です。
フィリピンから来た皆さんと一緒に写真を撮りました。

というわけで、大会の結びのミサの説教メモです。

●年間第32主日
 聖書箇所:知恵の書6・12-16/一テサロニケ4・13-18/マタイ25・1-13
      カトリック新庄教会(山形県)にて
 ホミリア
 今日の講話のテーマは「いのちへのまなざしを生きる」というものでした。
 「いのちへのまなざし」は本来、神が注がれるまなざしの意味です。その神のいつくしみのまなざしを感じながら、わたしたちも自分のいのち、他人のいのちに対して、いつくしみのまなざしを注いでいきたいのです。
 その中で、特にキリストを信じる者として大切に思っていることは、「いのちの平等性」と「いのちの連帯性」ということです。すべてのいのちは神からのものであり、すべてのいのちは神のいつくしみのうちにある。だからすべてのいのちは等しく尊い。障がいがあるとかないとか、どの民族の人だというので、いのちの価値に違いはない。自分の国の人のいのちは大切だけれど、他の国の人のいのちはどうでもいい、そんなことは絶対にない。これはわたしたちがどうしても譲れない一つの点です。
 もう一つはいのちの連帯性。わたしたちのいのちは、ぽつんと一つだけで存在しているのではない。肉体の中に閉じ込められたいのち、とか、誕生から死までの時間の中にあるいのち。それがすべてではない。わたしたちのいのちは、何よりも神とのつながりによって生きているいのち、生かされているいのち。だから肉体の死によって終わってしまうのではない。死を超えても神とのつながりはなくならず、むしろ死を超えていのちは神のもとで完成されていく。そういう大きな希望を持ったいのちなのです。また人と人、人と他の被造物のいのちのつながりの中で生きているいのちでもあります。いつも思い浮かべたいのは、「一粒の麦」のイメージです。イエスはおっしゃいます。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ」。麦は地に落ちて死んでしまうのではありません。でも一粒の麦はその一粒を守ろうとして必死が殻を壊すまいとするのではなく、まわりから水分や養分を取り入れ、殻を壊して自分を無にして、そうして成長していきます。イエスの死と復活のいのちとはまさにそういういのちでした。そのいのちのつながりの感覚を本当に大切にしたい。

 そしてこのいのちの平等性や連帯性を感じる中で、ではわたしたちはどう生きるか、与えられたいのちをどう生きるか、これが今日の福音のテーマです。
 ともし火に予備の油を用意していた「賢いおとめ」と予備の油は用意していなかった「愚かなおとめ」のたとえ話なのですが、もしかしたら、油を持っているのに分けてあげない「意地悪なおとめ」と油を分けてもらえなかった「かわいそうなおとめ」の話に聞こえてしまうかもしれません。
 きょうの福音のたとえ話は、少し説明がいるでしょうか。昔の中東の結婚の風習が背景にあるからです。十人のおとめというのは、花嫁の友人たちのことです。彼女たちは花嫁の家で、花婿が花嫁を迎えに来るのを待っています。迎えにきたら花嫁に付き添って一緒に花婿の家に行き、そこで結婚の宴が始まるのです。
 その花婿の到着のときに油を携えているかどうか、が問われる。これはわたしたちの生き方の問題ですね。生き方だから人に分けてあげることはできない。たとえば、親は子どもによく生きてほしいと願います。それは物質的、経済的によく生きるということよりも、人間として、生き方としてよく生きてほしいと願う。そのために日々、できるかぎりのことをして、子供を育て、しつけたりします。でもその子の生き方はその子のもの、その子自身が最終的に選ばなければならない。親が変わって生きてあげることはできない。生き方というのは、それぞれ、その人自身のものだからです。「分けてあげられない油」とはそういうその人自身の生き方だといったらいいでしょう。
 もっと具体的に、では油とはなんでしょうか。この箇所には何の説明がありません。でも、神のみこころにかなう生き方のことであるのは確かです。そしてこのマタイ25章の後の箇所(再来週の朗読箇所)を見れば、人を大切にして生きることであることがはっきりしてきます。25章31節以下の箇所にこうあります。そこでイエスはこう言います。
 「35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」「40はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
 何が神のみこころにかなう生き方なのか、これほど明確な言葉はありません。目の前に助けを必要としている人に手を差し伸べること。今日の箇所の油も、これ以外のことではありえません。その意味で、わたしたちが求められていることははっきりしています。

 と同時に油のイメージも大切にしたいと思います。油がなければ、ともしびは燃えず、輝くことができません。それと同じように、人を尊重し、大切にし、助けるこころがなければ、わたしたちの人生は輝きません。お金を持ったり、競争に勝つことが人生を輝かせるのではないのです。愛といつくしみがわたしたちの人生を輝かせるのです。そのことをほんとうに深く心にとめて味わいたいと思います。結婚の宴会から締め出されるとか、地獄に落とされるとか、そんなイメージで、愛さなければならない、と義務的に考えるのではなく、本当にわたしたちが愛を持って生きる時、わたしたちの人生は輝くのだ。そのイメージを持ちたい。そして、わたしたちは最終的に燃えて輝くともしびをもって、主を迎えたい。神様に出会いたい。そう願おうではありませんか。
 わたしたちは心から人を大切にする力を、今日もミサの中で、みことばから、聖体からいただいていきます。
 

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