毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

自死された方々のための追悼ミサ



南相馬の紅葉も終わりかけていますが、散歩していたら見事なもみじがありました。
「夜ノ森公園」と言えば、富岡町が有名ですが、ここは南相馬市原町区の夜ノ森公園です。

さて、11月25日(土)の自死された方々のための追悼ミサの説教メモを載せておきます。

教区・修道会・宣教会の5人の司祭が共同司式してくれたのが嬉しかったです(これまでで最も多い)。
大阪教区の助祭やコンベンツァル会の神学生たち、イエスのカリタス会のシスターたち、信徒スタッフの皆さんも奉仕してくれました。感謝です。

●自死された方々のための追悼ミサ
 聖書箇所:一コリント13・1-13, マタイ25・31-40
       2017.11.25東京四ツ谷・聖イグナチオ教会にて
 毎年11月の死者の月に、この聖イグナチオ教会で、自死というかたちで生涯を終えた方々の追悼ミサをするようなって、今年で7回目だと思います。毎回、わたしの知っている方々のことを思い起こします。わたしはずっと教会の司祭として働いていましたので、いろいろな辛さ、生きづらさを感じている方々とたくさん出会いました。そして残念ながら、自死するしかないところまで追い詰められてしまった人も何人が存じ上げています。その人たちのことを思い出します。
 もちろん、どんなにか辛い、苦しい思いをなさっていたかということも思い出しますが、同時にその人がどれほど心優しい人だったか、人に対して親切だったか、特に弱い人や苦しむ人に対してどれほど深く共感する心を持っていたかというようなことを思い出します。
 もちろん人間ですから、自己中心的な部分、愛の足りない部分もそれぞれに抱えていたでしょう。でも本当に愛して生きようとした姿が思い出されるのです。
 それで、今日の聖書朗読で、先ほどの2つの箇所を読んでもらいたいと思いました。

 福音は明日の日曜日のミサで読まれる箇所です。
 最後の最後にわたしたちは皆、キリストに決定的に出会うときを迎える。その時、キリストはわたしたち一人一人がどのように愛をもって生きたか、という点だけを見てくださる、という話です。もちろんこの箇所は、だから本当に目の前の人を大切にするように、苦しむ人、助けを必要としている人を見過ごすことのないように、自分にできる精一杯の仕方で、その人々と関わるように、とわたしたちに促し、励ますためのイエス・キリストの説教です。
 でも同時に世を去った人々のことを思い出すとき、わたしたちはこのキリストの言葉に慰めを見いだすことができると思います。わたしたちは皆、不完全な人間ですから、誰も愛をもって生き抜いたと胸を張って言うことはできないでしょう。でもキリストはわたしたちの小さな、小さな愛を決して見逃すことなく、見ていてくださる。そして、「わたしの兄弟であるこのもっとも小さな人の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」と言ってくださるのです。亡くなられた方々は、そういう愛をもって生きたのだということをわたしたちは信じますし、このキリストのまなざしにその方々を委ねることができると思います。

 もう一つ大切なことは、キリストが「この人たちにしてくれたのはわたしにしてくれたこと」と言うほどにこの苦しむ人々に自分を重ね合わせていることです。イエスご自身が、十字架に向かう中で、旅に疲れ、牢屋に入れられ、衣服を剥ぎ取られて裸にされ、飢え渇き、弱り果てていきました。だからこそ、この苦しむ人はわたし自身だ、と言えたのです。自死された方々の苦しみを思い出します。さまざまな悩みを抱え、孤立して、死ぬしかないところまで追い詰められた、その苦しみを思います。でもそこにキリストが共にいてくださると信じますし、そのキリストは苦しみの中で亡くなられた方々を決して突き放すことはない、「あなたの苦しみはわたしの苦しみだ」と言ってくださると確信するのです。

 最初に読まれた使徒パウロのコリントの教会への手紙。それはカリスマについて語られている中での言葉です。カリスマとは今の日本では何か神がかった優秀さを指す言葉として使われていますが、本来は聖書に出てくるギリシア語で、聖霊の賜物を表す言葉でした。人それぞれが神から与えられた能力や才能をもっていて、それぞれの役割を果たし、違う働きをしている、ということを表すのがこのカリスマという言葉です。コリントの教会には、さまざまなカリスマを持つ人がいて、それはそれでよかったのですが、自分のカリスマを自慢して、人よりも自分のほうが優れていると思い、人を見くだすような危険もあり、それが教会を分裂させるというような悲しい現実もありました。そこで、パウロは「最高の道」を示そうと言って13章で愛について語るのです。あらゆるカリスマよりも大切なものは愛、そして「愛は決して滅びない」 それがパウロの語る信仰の確信です。すべてのものは過ぎ去って行く。人間の持つさまざまな能力や優れた点もいつかはなくなってしまうもの。しかし、愛だけは決して滅びない、というのです。

 そこに「顔と顔を合わせて見る」という表現があります。最後の最後、わたしたちにとってそれは死のときだと考えていいと思いますが、そこでわたしたちは決定的に神と出会う。そのときに起こることを、パウロは「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」と言います。何を知るのでしょうか。それは神がわたしたちのことをはっきり知っているように、わたしたちも神を知るのであり、同時に神の光に照らされて自分自身を知るのです。そのとき、神とはどういう方かがはっきりと分かる、そして、その神の目から見て、自分の人生の中で何が本当に価値あるものであったかがはっきりと分かる、ということです。本当に何かが大切で何が滅びない永遠のものであるか、それは突き詰めて言えば「愛」しかない。これがパウロの語っていることです。

 「愛は決して滅びない」わたしたちはこの言葉に希望を置きます。
 亡くなった方々の示した愛、その方々の心にあった愛の思い。そして、わたしたちとその方々との愛のつながり。それは肉体の死によって絶たれるものではなく、神のもとで完成し、永遠のものになった。わたしたちはそう信じ、本当に大きな神のいつくしみと救いといのちに信頼しながら、今日のこの追悼ミサをささげたいと思います。
 


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