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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

王であるキリストの祭日



この本は絶版です。アマゾンで買えますけど、ちょっと高いので、図書館で探してみてください。
オススメです。

ミサには全国各地の方々、特に遠路、金沢教会の方々も参加してくださいました。

●王であるキリスト(年間第34週)(祭)
 聖書箇所:エゼキエル34・11-12, 15-17/一コリント15・20-26, 28/マタイ25・31-46
      カトリック原町教会にて
 ホミリア
 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」(マタイ25・35-36)
 日本ではキリシタン時代から、この6つのことはよく知られていました。聖書などあまりなかった時代でしたが、慈悲のわざとしてこの6つのこと、それに「死者を葬ること」を加えた7つのことが大切な慈悲の所作として、信者の中で受け取られ、実践されていたようです。今年の2月に列福された高山右近、金沢に長く暮らした高山右近もこの慈悲のわざの実践者としてよく知られています。
 だからまあ、これらのことに励めばいいのですね。いろいろ言葉で説明するよりも実践が大切です。

 でも「わたしには何もできない、病気だし、お金もないし・・・」という声もよく聞きます。それで思い出したのが、「無財の七施」という言葉です。
 仏教の言葉ですが、わたしがこの言葉に出会ったのは、糸賀一雄さんという人の本の中でした。糸賀さんは日本の障害者福祉、社会福祉の父とも呼ばれる方です。戦後、浮浪児と呼ばれていた戦災孤児と知的障害児の施設である「近江学園」を創設し、園長になりました。それから重度の知的障害児や大人になった障害者のための施設、重症心身障害児のための「びわこ学園」など、時代の必要に応じて次々と新しい分野の福祉事業を生み出して行った実践家でした。と同時に京都大学の文学部哲学科を卒業し、キリスト教の信仰を持ち、福祉とは何かを考え続けた思索の人でもありました。1968年、滋賀県の福祉施設の新人職員の研修会で講演中に倒れ、そのまま、病院に運ばれ、翌日亡くなられました。54歳の若さでした。
 その最後の講義で、最後のほうで話されたのが、この「無財の七施」の話でした。『愛と共感の教育』という本に収録されています。仏教から来た言葉ですが、要するに、何も持っていなくても人に差し上げることのできるものが7つあるというのです。

 「眼施(げんせ)」人にやさしいまなざしをもって接することだと言われます。これは何も持っていなくても人に差し上げられるものだと言うのですね。
 「和顔悦色施(わがんえつじきせ)」にこやかな微笑みをたたえた顔で人に接すること。これも確かにそうです。
 「言辞施(げんじせ)」言葉の美しさ。どなったりするのではなく、優しい言葉で接する。「おはよう」という一言が、ものすごいプレゼントになることもあります。誰からも相手にされず、本当に孤立してしまっているようなとき、たった一言その人に声をかけるだけで、どれほど大きな救いと励ましになるでしょうか。
 「身施(しんせ)」。体を使って働くこと。お金はなくても健康な体があればできること。(カリタス南相馬に来ているボランティアの人たちがまさにしていることですね。今日も寒い中、小高や浪江のボランティアに出かけて行かれました。頭が下がります)
 「心施(しんせ)」。「人のために心を配る」ことだと言われます。糸賀さんによれば、感謝の心を持つことだとも。そうですね。一見人にしてもらうばかりに見えるときも、感謝の心を差し上げることができる、と考えるのはすばらしいことではないでしょうか。わたしたちが誰かのために祈る、というのもこの「心施」と言えるかもしれません。心だけでもそれは素晴らしい施し、差し上げるものになる、これも大切なことでしょう。
 「床座施(しょうざせ)」。席を譲ってあげること。体の弱い人に席を譲ってあげるイメージですが、「自分が、自分が」ではなく、他人のために場所を譲るというのは、もっと別の場面でも考えられるかもしれません。人を思いやる心の表れです。
 「房舎施(ぼうしゃせ)」一宿一飯の施し。一杯のご飯でも半分分けてあげることはできる。宿を貸してあげることも、特別何かを持っていなくてもできる。これが「無財の七施」です。

 最後のことは今日の福音でイエスが言っていることと同じですね。むしろ、この「無財の七施」からイエスの言葉を見つめ直せば、イエスの語る6つの行いも、持っているから与えてあげるというような世界ではなく、ほとんど何も持っていなくてもできることだと言うことができそうです。
 大切なのは、わたしの心を人に向けて開くこと。自分さえ良ければ、という世界でなく、人に向かって、特に弱い立場に置かれた人、苦しみ助けを必要とする人に向かって心を開くこと。本当に今日の福音の言葉をわたしたちがもっともっと実際の生活の中で実行し、生きることができるように、このミサの中で祈りたいと思います。
 

 

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