毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

「知足庵だより」



「知足庵だより」第5号に原稿を頼まれて、できあがってきたのですが、
なぜか間違いが多いので、元の原稿を載せておきます。

補足:その後、訂正版が送られてきました。わざわざ印刷し直してくださったそうで恐縮しています。
    ありがとうございました。

  脱原発は当然のこと
                      カトリック東京教区補佐司教 幸田和生

 わたしの両親は福井県小浜市の出身です。小浜は昔から若狭湾で魚を採り、それを加工し、京都に送る町として栄えてきました。海産物の加工技術には非常に優れたものがあります。京都との交流が深かったので、由緒のある古いお寺もたくさんあります。国宝に指定された寺も多いのですが、その中でも、特にわたしのお気に入りなのは明通寺というお寺です。そこには鎌倉時代に建立されたとても美しい三重塔があります。
 この明通寺の住職は中嶌哲演という方で、小浜に原発をつくるという話があってから、ずっと反対運動の先頭に立っておられる方です。このような地道な反対運動のため、小浜市には原発はできませんでしたが、隣のおおい町には有名な大飯原発があります。大飯原発は、近く再々稼働すると言われていますが、大飯原発の立地自治体は、福井県とおおい町で、隣の小浜市はどんなに近くても立地自治体ではないので、小浜市がいくら反対しても、福井県とおおい町が合意すれば再稼働できることになっているのです。地図で測ってみると、わたしの両親の実家は父方・母方どちらも大飯原発から10km以内でした。それはもし福島のような事故があれば浪江町のようになるということを意味しています。日本海では大地震はないだろう、という人もいますが、キリシタン時代のルイス・フロイスというイエズス会士は、当時、若狭湾で大津波があり、多くの人が死んだと記録しています。

 さて、中嶌住職がなぜ原発に反対するようになったか、実は最初から原発のことをよく知っていたわけではないそうです。しかし、原発を誘致すればお金が降ってくると聞いて、「そんなものがいいものであるはずがない」と直感したとのこと。それ以来、徹底して原発反対を訴えておられます。まったくその通りだと思います。原発はいいものであるわけがない。事故の可能性がゼロではなく、もしも事故が起こった場合の、長期間・広範囲に及ぶ悲惨な影響という問題。処理方法がない放射性廃棄物を未来世代に押し付けるという問題。ウラン採掘から原子力発電所に至るまでの被曝労働の問題。どう考えてもやめるべきです。こんなことは「当然」のことです。

 福島第一原発の事故があって、日本と世界の多くの人々は「原発はもうダメだ。やめていくしかない」と考えたと思います。原発をやめていく政策をはっきりと打ち出した国もあります。日本のカトリック司教団も脱原発を訴えています。それでも今の日本政府は、原発を「重要なベースロード電源」(季節、天候、昼夜を問わずに安定的に電力を供給できる電源)と位置づけ、使い続ける方針です。目先の再稼働よりもこれが問題だ、とわたしは思います。原発を使い続けるという前提の上で、新しい安全基準に合致したものから再稼働するというのと、すべての原発をできるだけ早くやめていくという前提のもとで、やむをえず一部で再稼働を認めるというのは、大きな違いがあります。なぜ原発をやめていくという政治的決断ができないのか、それは結局、目先の利益しか考えていないからです。

 フランシスコ教皇は回勅『ラウダート・シ』の中で、「ビジネスは、関連コストのほんの一部だけを計算して支払うことによって利益を得る」ため、「未来の資源や健やかな環境を犠牲にしていることには、少ししか注意が向けられ」ないということを鋭く批判しています(LS195)。原発を推進してきたのも、今になってもまだやめようとしないのも、まさにこういう部分的な計算の上でのことです。そこでは原発事故による環境破壊や人的被害に対する補償はまったく計算されていないのです。電力会社はこのような都合の良い計算に基づいて目先の利益のために動いているのですから、原発をやめようとすることはありません。原発を将来的にゼロにする、それは政治が決断しなければできないことです。そして政治にそう決断させるのは国民の意識しかないのです。
 脱原発は当然のことです。知足庵の願いも当たり前のことです。当たり前のことが当たり前になる、そういう社会の実現を心から祈っています。


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