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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第二主日のミサ



県道34号線、国道114号線をとおって浪江インターへ。
この先は帰還困難区域ですが、10月20日から車は通れるようになりました。
最近はこのルートをよく利用します。
確かに便利になりましたが・・・・

●待降節第二主日
 聖書箇所:イザ40・1-5, 9-11/二ペトロ3・8-14/マルコ1・1-8
 2017.12.10カトリック原町教会にて
 ホミリア
 「慰めよ、わたしの民を慰めよ」
 今日の第一朗読はイザヤ書40章の言葉が読まれました。イザヤという名の人は紀元前8世紀にユダ王国で活動した預言者ですが、40章〜55章はこのイザヤの預言ではなく、もっと後の時代、紀元前6世紀の別の預言者が伝えた言葉だと考えられています。今では一般に「第二イザヤ」と呼ばれています。
 紀元前6世紀というのはバビロン捕囚の時代です。300年続いたダビデ王朝がバビロニア帝国によって滅ぼされ、ユダヤの主だった人々はバビロンに強制連行されていきました。イスラエルの歴史の中でも特に大きな苦難の時代でした。王国時代の預言者たちは、王や民の罪を指摘し、神に背く民には災いが下ると警告していました。だから彼らは自分たちの先祖の罪がこのバビロン捕囚という不幸をもたらしたと考えていました。その罪の罰として、今の捕囚がある。そう考えるともう黙ってこの苦しみに耐えるしかない。わたしたちはもう神にも見捨てられてしまった。神は遠く離れている。それが捕囚の民の思いでした。そこでは何の救いも見いだすことができませんでした。

 第二イザヤという預言者は「いや、そうではない」と告げるために神から選ばれました。
 「1慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」
 もうこの苦しみの時代は終わる。それがイスラエルの罪の罰であったとしても、もう十分だ。神は新しいことをなさろうとしている。イスラエルの人々が、囚われの地からエルサレムに帰ってくる、解放の時が近づいている。これが第一朗読の告げる「良い知らせ」=解放のメッセージです。

 その後、バビロニア帝国はペルシャに滅ぼされ、ペルシャの王キュロスはユダヤ人たちが国に帰り、神殿を再建することを許しました。しかし、その後も外国の支配は続き、イエスの時代にはローマ帝国がパレスチナを支配するようになっていました。ユダヤ人たちはローマ帝国の重税によって苦しめられていました。
 やはり神は遠くにおられると感じないわけにないかなかったのです。出エジプトやバビロンからの解放という神の救いのわざも昔のこと。預言者のメッセージもずっと前の時代のこと。神はもう預言者の口をとおして語られることもない。
 民がこんなに苦しんでいるのに、神は遠くにいて知らん顔をしておられるのではないか。いや、自分たちの罪が神と自分たちの間を遠ざけているのかもしれない。そこにはやはり何の救いも見えなかったのです。
 そこに一つの声が響きました。洗礼者ヨハネの声です。
 「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」
 彼のメッセージは、神が近づいて来て何かをなさるというメッセージでした。だから今、心から神に立ち帰れ、というメッセージでした。そして自分の後から、決定的な方、救い主が来られると告げたのです。

 後から来られたのはイエスでした。
 イエスは本当に、神は近くにおられると告げました。「神の国は近づいた」これがイエスの福音のメッセージですが、それは神ご自身が近づいて来て、わたしたちを救ってくださるというメッセージでした。イエスは神のいつくしみを語り、そのいつくしみに信頼するよう呼びかけました。そして、神に対する信頼と希望を取り戻した人々の集まりが生まれていきました。
 これがイエスのもたらしたことです。
 わたしたちの信仰者としての原点に、このイエスのなさったことがあります。イエスによって神は本当にわたしたちの近くにおられる方となったのです。マタイ福音書はこう言います。
 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は『神は我々と共におられる』という意味である」
 このことを味わうのが、待降節・降誕節という今の季節のテーマです。
 イエスにおいて、神は本当にわたしたちの近くにいて、わたしたちと共にいてくださる方となった。だからわたしたちは決して神から見捨てられていないし、神はわたしたちに生きる意味と希望を与え続けている、それはもう2000年前に実現したことです。そのことの意味を今年もこの季節に深く受け取りたいのです。

 同時に、今もなお、わたしたちには救いを待ち望んでいる面があります。いろいろな苦しみの中にあってそこからの救いを待ち望んでいます。また他人の苦しみに無関心で愛の足りない部分がわたしたちの中にあります。わたしたちの罪がわたしたちを神から引き離していると感じることもあります。
 その中で本当に神が近くに来てくださる喜び、イエスがともにいてくださる喜びを深く味わうことができるように、わたしたちは心を整えて、今年も主の降誕の祝いの準備をしていきます。



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