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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第3主日のミサ



もうすぐクリスマス。原町教会のクリスマスと新年のミサは以下のとおりです。

12月24日(日)10:00待降節第四主日のミサ
         18:30主の降誕・夜半のミサ
12月25日(月)10:00主の降誕・日中のミサ
12月31日(日)10:00聖家族の祝日のミサ
1月1日(月)10:00新年のミサ(神の母聖マリアの祭日)

お近くの方も、遠くの方もどうぞ。(って、無理か)

●待降節第3主日
 聖書箇所:イザヤ61・1-2a、10-11/一テサロニケ5・16-24/ヨハネ1・6-8、19-28
      カトリック原町教会にて
 ホミリア
 わたしはクリスチャンの家庭で育ったのではないので、子どもの頃のクリスマスの思い出はあまりありません。一番昔のクリスマスの思い出について話したいと思います。
 それは小学校低学年の二学期の終わり、12月のことでした。明日が終業式という日に、わたしは遊んでいて、転んで、鼻の頭を擦りむいてしまいました。当時は怪我をすると「赤チン」を塗られました。真っ赤な消毒液です。鏡を見ると鼻を真っ赤にしたわたしがいました。それでわたしは母に向かって、「明日は絶対、学校に行かない」と言いました。当時から街にはクリスマスソングが流れていて、子どもでもよく知っている歌に「赤鼻のトナカイ」という歌がありました。「真っ赤なお鼻のトナカイさんは、いつもみんなの笑い者」クリスマスのころに鼻に赤チン塗ったわたしが学校に行ったらみんなにどれほど笑われるか、そう思ったのです。

 そのとき、母は、叱るのではなく、こう言いました。「赤鼻のトナカイっていう歌の歌詞をよく思い出してごらん。みんなの笑い者だったトナカイさんは、サンタのおじさんから、暗い夜道にはお前の鼻が役に立つ、って言われたでしょう。それでトナカイさんは喜んだでしょう」そんなふうにていねいに話してくれました。それを聞いてわたしはなんとなく納得して、嬉しくなって、翌日、学校に行ったのを覚えています。
 これが一番古いクリスマスの思い出です。
 トナカイさんの鼻と違って、赤チンを塗ったわたしの鼻は何の役にも立たないし、今になって思えば、トナカイの赤い鼻だって、本当は何の役にも立たなかったのかもしれません。でも、サンタさんはそのトナカイを大切にしてくれている、そのサンタさんの心が伝わったので、トナカイは喜んだのです。そしてわたしが嬉しくなったのは、母が自分を大切に思ってくれていると感じたからでしょう。
 ケーキでも、ご馳走でも、プレゼントでもない喜び。それがクリスマスの喜びだと、それ以来なぜかずっと感じています。

 今日の待降節第3主日は伝統的に「喜びの主日」と呼ばれています。クリスマスの喜びを少し先取りして味わってもいいのです。
 第一朗読には、「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る」という言葉がありました(イザヤ61・10)。第二朗読でパウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と言っています(一テサロニケ5・16–18)。
 でも特に、今日ご一緒に味わいたいと思ったのは、答唱詩編の言葉です。今日の答唱詩編はふだんと違います、ふだんは旧約聖書の詩編が歌われますが、今日は、ルカ福音書の中のマリアの歌です。「Magnificat」と呼ばれて親しまれてきた歌です。イエスを身ごもったことを知ったマリアは親類のエリサベトのところに行ってこう歌いました。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカ1・47新共同訳)
 マリアは喜びに満たされています。その理由は、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(1・48)と言います。
 「身分の低い」という言葉は辞書通りの訳ですが、今の時代なら「取るに足りない」と訳したらいいかもしれません。貧しく無力で、まったく特別なことのないマリア。処女であって子どもを産む能力もないはずのマリア。そのマリアを選んで、神は救い主の母とされた。特別に神がこのわたしに目を留めてくださった、それがマリアの喜びの理由でした。でもそれはマリアだけの喜びではありません。この賛歌の後半で、マリアは歌います。
 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」(ルカ1・51–52)
 この「身分の低い者」はマリアがご自分のことを言っていた言葉と同じです。身分の低いわたしに目を留めてくださった神は、身分の低いすべての人に目を留めてくださり、高く上げてくださる。マリアはそういう確信をもって神を賛美しました。

 神は貧しい少女マリアに目を留められた。貧しくさげすまれたすべての人に目を注いでくださった。それがクリスマスの喜びです。サンタのおじさんが赤鼻のトナカイに目を留めてくださったこと、母が子どものわたしにやさしい目を注いでくれたこと。その喜びともつながっています。幼子イエスが、飼い葉桶に寝かされ、訪ねてきたのが当時、貧しくさげすまれていた羊飼いたちだったという降誕の物語もそういう喜びをわたしたちに伝えてくれるのです。それは神ご自身が貧しく取るに足りないわたしたちに目を注ぎ、わたしたちの中に来られて、わたしたちの一員となってくださったという喜びなのです。

 神はわたしに目を留めてくださっている。そのことをクリスマスにあたり、本当に受け取りたいと思います。時にわたしたちは、「自分なんかだめだ、自分なんか誰からも相手にしてもらう値打ちがない」そう感じてしまうこともあります。でもそうじゃない。神はあなたに目を留めてくださっている。それがクリスマスの喜びのメッセージなのです。
 イザヤ書43章4節にこういう言葉があります。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し(ている)」。この言葉は、打ちひしがれた捕囚の民に向けて語られたものであり、ガリラヤの貧しいおとめに向けて語られたものでもあり、そして今、わたしたち一人一人に向けて神が語られている言葉なのです。
 この喜びを深く受け取り、味わい、周りの人々と分かち合いながら、クリスマスを迎えたいと思います。


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