毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第4主日のミサ



写真は原町教会の祭壇前。待降節のろうそくがようやく4本点きました。
でもミサ後すぐに取り払われ、降誕祭の飾りつけの準備が始まりました。

●待降節第4主日
 聖書箇所:サムエル下7・1-5, 8b-12, 14a, 16/ローマ16・25-27/ルカ1・26-38
     カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今年は12月24日が日曜日という神父泣かせのカレンダーになっていますが、とにかく 待降節は今日で終わります。待降節の一つの大きなテーマは、救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々と心を合わせて、救い主の誕生の準備をするということでした。
 旧約の人々は何を待っていたのでしょうか。それは神と人とが一つに結ばれること、神と人とが親しい交わりを取り戻すこと、そして人と人とが平和のうちに生きること、だと言ったらよいでしょう。

 聖書のはじめ、創世記1章によれば、人間は神によって、特別神に近い存在として造られました。神は人間を祝福し、良しとされました。2章では土の塵から取られた人間は、神のいぶきを注がれ、生きるものとなりました。さらに神は「人がひとりでいるのは良くない」とおっしゃって、ふさわしいパートナーとして女性をお造りになりました。その二人は結ばれて、一体となりました。神と人・人と人が一つに結ばれた、とてもよい関係がそこにはありました。
 創世記の3章は、その人間が神とのつながりを忘れ、自分さえ良ければという考えから、禁じられた木の実を食べてしまうという物語です。すると神と人間とのよい関係は壊れ、人間同士のよい関係も壊れていくことになりました。

 ここから人間の苦悩が始まります。自分の罪のために、神から離れてしまっている、神との関係を見失っているという面。人は皆、自己中心的な考えを持っていて、人と人とが争ったり、傷つけあったりしているという悲しい現実。人間同士の関係が、競争原理や力関係ばかりになってしまう。そしてこういう人間の苦しみを見ても、神は遠くから見ているだけで、何もしてくださらないように感じる悲しみ・・・。
 そういう中で旧約の人々は、神と人、人と人とのつながりが本当の意味で取り戻されることを待ち望んでいました。
 神はその人間の待望を満たすために、神と人・人と人とのつながりを取り戻すために、ひとり子イエスを送ってくださった。人類の一員として、わたしたちと同じ人間として送ってくださった。これがキリスト教の信仰です。これが毎年毎年わたしたちがクリスマスに祝っていることです。

 今日の福音は受胎告知(お告げ)の場面でした。神がどのようにして、この関係回復の決定的な働きを始められたか、を告げています。
 神はまず、天使をガリラヤの一人の少女のもとに遣わし、語りかけました。違うやり方もあったはずです。普通の夫婦から生まれた普通の人間を救い主にしてもいいわけですし、あるいは、雲に乗せて、天から救い主を送ってもよかったはずです。しかし、神のやり方はそうではありませんでした。救い主の母となる女性に、前もってそのことを告げ、彼女の同意を求めたのです。
 救い主を遣わすのは神のなさることです。だから一方ではこれはまったくの恵みの世界です。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」この最初のあいさつからして、マリアは圧倒的な恵みの中にいることが示されています。マリアが優れているから選ばれたのではなく、男の人を知らず、子どもを産むことができない、まったく無力な者として選ばれたのです。マリアが救い主の母となる、そこには人間の力ではなく、圧倒的な神の力が働いています。

 マリアは「はい」と答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」マリアは自分の中に神の言葉を受け入れ、自分の中にその言葉が実現するように祈りました。救い主を遣わすにあたって、神はマリアのこの「はい」を求めました。マリアが「はい」と言わなくても、イエスは生まれたでしょう。でもマリアが「はい」と言ったことによって、ここに本当の意味で、神と人とのつながりが実現したのです。
 ここに新しい救いの時代が始まりました。キリスト教はそう確信しています。
 神は人間との関係を取り戻すために、ひとり子イエスを世に送りました。それは人間が良いことをしたからではなく、苦しむ人間の姿をみて、神がただあわれみ、いつくしみからしてくださったことでした。でもそれだけでは、神と人間との本当の関係はできません。神の救いを握手のイメージで考えるとよいと思います。神は人間に向かって、いつもいつくしみの手を差し出しています。人間はそれを無視することも、はねのけることもできます。でも人間がその神のいつくしみの手に気づき、自分も手を差し伸べて、差し出された手を握り返すとき、そこに固い握手が成立します。
 今日のお告げの場面で起こっていることはまさにそういうことだと言ったらよいでしょう。

 救い主は来られます。2000年前に来られたように、今年もわたしたちの中に来られます。
 わたしたちはベツレヘムの宿屋のように、幼子とその両親を無視したり、拒絶することもできます。ヘロデ王のように自分にとって迷惑な存在だとはねつけることもできます。でも羊飼いたちのようにこの幼子を受け入れることもできるし、東方の博士のように、その子をあがめることもできます。
 神を忘れ、目先の損得や人との勝ち負けにばかり目を向けて行くとき、わたしたちは幼子イエスを受け入れることはできないでしょう。神と人・人と人との関係回復という神のなさる大きな救いの計画に心を向けて、その中で幼子イエスを見つめましょう。神は私たち人間との関係を取り戻すため、人間同士のよい関係を取り戻すためにこの幼子を遣わされました。このイエスをマリアとともに喜んで迎えることができますよう、ご一緒に祈りたいと思います。


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