毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の降誕・夜半のミサ



クリスマスおめでとうございます。
原町教会では、広島から来たボランティアの高校生たちやさゆり幼稚園の子どもたちも含め、聖堂いっぱいの人でクリスマスのミサを祝いました。

夜半ミサの説教をお送りします。

●主の降誕・夜半のミサ
 聖書箇所:イザ9・1-3, 5-6/テトス2・11-14/ルカ2・1-14
     カトリック原町教会
 ホミリア
 昔の話ですが、大学生だったある冬休みに、ボランティア活動をするために富士聖ヨハネ学園という施設に行きました。山梨県の忍野村というところにある知的障がい者の施設です。障がいをもった人たちは20人ぐらいずつで別れて住んでいました。その一つ一つは「寮」と呼ばれていました。児童と成人、男子と女子、そして重度と軽度というふうに分かれているので、全部で八つの寮がありました。
 12月24日の夕食後に、職員の人たちがクリスマスキャロルを歌いながら、8つの寮を回るということになっていて、ボランティアのわたしたちもそれに加わることになりました。その日の午後から雪が降り始めました。それまで東京近郊に住んでいたので、クリスマスに雪を経験するのははじめてでした。ホワイトクリスマスです。
 雪の中、ろうそくを手にして、クリスマスキャロルを歌いながら、学園の中をまわっていく。いい気分でした。当時、「園生」と呼んでいた知的障がいの人たちも皆、喜んでくれました。最後に行ったのが「たけのこ寮」というところでした。そこはもっとも障がいが重い子どもたちの寮でした。そこに行って玄関で歌を歌ったのですが、まったく反応がありませんでした。ある子どもは走り回っているし、ある子どもは床に寝転んだまま。わたしたちの歌には何の反応もないのです。この子たちはなに?と思いました。いい気分は吹っ飛んでしまいました。それまでもこういう障がい者の施設に行ったことはありましたが、わたしが出会っていたのはほとんどが障がいの軽い人たちで、こんなに意思が通じない人がいるということに驚かされました。すごくショッックを受けました。
 それからわたしは長い休みのたびにヨハネ学園に行き、たけのこ寮に通い詰めるようになりました。当直までさせてもらったことがあります。そうやってきちんと関わろうとしてみるといろんなことがわかってきます。この子にはこんなところがある。あの子はときどき人に噛み付くけれど、それはこういう時だ。あの子は一緒にいてきちんと向き合う時間をとってあげるとすごくうれしそうになる。などなど。

 春休みに一人の子どもがヨハネ学園に入ってきました。Y君といいました。ちょうど小学校に上がるぐらいの年齢でした。自閉症ということで、言葉はほとんど2語まででそれ以上の文章は話しませんでした。よく繰り返していたのは「パンダの赤ちゃん」という言葉と「お母さん来るよ」。人との会話はまったくと言うほど成立しませんでした。ただし運動能力は抜群で、どんなところもよじ登りました。最重度の子のいるたけのこ寮なので、普段子どもが飛び出していかないように、玄関には鍵がかかっていました。でもY君は2メートルぐらいある庭の高いフェンスを簡単に乗り越えてしまいました。しょっちゅう、園内の放送で、「たけのこ寮のY君がいません。見かけた方はたけのこ寮に連絡してください」と言われていました。
 ある日、わたしはY君がフェンスを乗り越えているところを見ました。わたしは職員に連絡しておいて、彼を追いかけました。すると彼は学園の裏山の坂を登っていきます。でも途中で門があり、それ以上は行けなくなっていました。
 門のところで振り向いた彼に向かって、わたしは「これ以上は行けないね。帰ろうか」と言いました。するとY君は自分からわたしの手を握り、ずっろ手をつないで、一緒に帰り道を歩き始めたのです。今までそんなこと一度もなかったので、驚きました。心が通じた瞬間。そのときの感動を今でも忘れません。
 何もわからない、何も通じないと思っていたのはわたしの思い込みで、本当はこの子たちにもちゃんと何かが通じるのだ、そう教えられました。それからあの子どもたちの中に神の子としての輝きがある、とだんだんそう感じられるようになりました。

 わたしたちは今日、飼い葉桶に寝ている幼子のイエスを見つめます。
 ある人は「人間は、生まれた時は誰もが重症心身障害児だ」と言いました。
 飼い葉桶のイエスも立つことも、話すことも、まったく何もできない無力なイエスさまです。特徴といえば、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている」ということだけ。ベビーベッドも産着もない、最も貧しい姿です。でもそのイエスの中に、神の輝きを見るのがクリスマスの祝いなのです。

 あのイエス様の中に神の子の輝きがある。そう信じるわたしたちはすべての人の中に同じ神の子としての輝きを見ようとします。
 重い障害を持った子どもたちの中に神の子としての輝きを見る。
 震災ですべてを失ったかのように打ちひしがれた人たちの中に神の子としての輝きを見る。
 世界中で、難民や移民とならざるをえなかった人、戦争によって生命の危機に晒されている大人と子ども、そのなかに、神の子としての輝きを見る。
 アジアの国から「技能実習生」や「留学生」という名目で日本にきて、劣悪な労働条件で働かされている人たちの中に、神の子としての輝きを見る。
 クリスマスとはそういう祝いです。

 他人の中に、神の子としての輝きを見るだけではなく、自分の中に神の子としての輝きを見つけることも大切です。どこかで「自分なんかダメだ。生きる価値はない」とか、「だれからもまともに相手にされない、生きていても仕方ない。」そんなふうに感じてしまうことがあるかもしれない。でもこんなわたしの兄弟になるため、友になるために、イエスはあの小さな、無力な、貧しい姿で来てくださった。そのことを受け取れば、このわたしの中にも神の子としての輝きがある、それをきっと見つけられる。クリスマスとはそういう祝いの日なのです。


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