毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の公現のミサ



●主の公現(祭)
 聖書箇所:イザヤ60・1-6/エフェソ3・2, 3b, 5-6/マタイ2・1-12
       カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日のミサの後、クリスマスの飾りを片付けることになっていますが、せっかく飾ったものなので、これについてちょっとお話ししたいと思います。
 クリスマスツリーはヨーロッパの北の地方で生まれました。寒く、雪と氷に閉ざされたような地方の冬。もみの木やヒイラギのような常緑樹は、いのちのシンボルでした。それがイエス・キリストのいのちの誕生を祝うことと結びついたのです。色鮮やかな実がなったり、明かりが灯されるのも、そこに豊かないのちがあることのシンボルです。
 一方でイタリアなど南ヨーロッパでは、なんといっても飼い葉桶の人形です。これは聖書に伝えられたイエスの誕生の場面を再現するものです。13世紀にイタリアのグレッチオという町で、アシジの聖フランシスコによって始められたと伝えられています。当時は中世の真っ只中、大きな教会で荘厳なクリスマスのミサが行われていましたが、フランシスコはあえて町外れの洞窟のようなところに、本物の牛やろばを連れて来て、本物の人間の赤ちゃんを飼い葉桶に寝かせて、そこでクリスマスを祝いました。フランシスコがそうしたのは、クリスマスの「貧しさ」のメッセージを伝えるためだったそうです。このインスピレーションが受け継がれて、さまざまな人形などによって、イエスの誕生の場面を再現するようになりました。
 最近、あちこちでお話ししていますが、これは「馬小屋」ではありません。馬は軍隊や権力者のための動物でした。イエスが生まれた場所にいたはずの家畜は、荷物を運んだり、農作業に使うため、普通の人が飼っていた動物、つまり牛やロバなのです。最近では日本でも「馬小屋」と言わず、イタリア語で「飼い葉桶」を意味する「プレセピオ」という言葉も使われるようになってきました。まあ「飼い葉桶」の飾りと言っておきましょう。「飼い葉桶に寝ている」ということが何よりもこの幼子の特徴だからです。去年と今年、原町教会の聖堂の脇では、クリスマスツリーと飼い葉桶のイエスを組み合わせてみました。

 さて、この飼い葉桶の飾りですが、ちょっと無理なところがあります。お生まれになったイエスが飼い葉桶に寝かされ、そこに羊飼いたちが訪ねて来た、というのはルカ福音書が伝える出来事です。一方で、東のほうでメシア誕生のしるしである星を見た三人の博士(占星術の学者)がイエスを拝みに来た、というのは今日の福音のマタイが伝える出来事です。羊飼いたちはベツレヘムの近くで野宿をしていたので、イエスの誕生の晩に、そこに駆けつけたはずですが、三人の博士は遠い国で星を見て、それから出かけたので、彼らが幼子イエスのいたベツレヘムにたどり着いたのは何ヶ月もたってからのことだったでしょう。ちなみにきょうの福音の箇所の後、ヘロデ王が自分の王位を脅かすかもしれない幼子を抹殺しようとして、ベツレヘムの周辺の2歳以下の子どもを大量虐殺したという話があります。幼子イエスはヨセフとマリアに連れられてエジプトに逃れて無事でしたが、この話からも博士たちの来訪にはかなりの時間がかかっていたことが分かります。
 そういうわけで、羊飼いたちと博士を一緒にするのはどうかと思いますが、伝統的にどこでもそうしているようです。幼子イエスの周りに集まってくる大勢の人々というイメージを大切にしているのでしょう。先週、聖家族の祝日に思い起こした、シメオンやアンナという人々の姿もここに加えていいのかもしれません。この二人は、長く救い主を待ち望んでいたイスラエルの民を代表する人たちでした。実にさまざまな人が幼子イエスの周りに集まって来ます。その雰囲気を感じ取りたいと思います。
 幼子イエスがそこにいる喜び、幼いいのちを見守り、このいのちが健やかに成長していくことを願う祈り。この子の未来にかける夢と希望。この幼子こそがすべての人の救いへの飢え渇きを満たす方だ。それを表すのが、この飼い葉桶の飾りなのです。
 
 さて、祭壇の前には飼い葉桶と幼子イエスだけが置かれています。マリアとヨセフ、牛やロバ、羊飼いや博士たちはどこにいるのでしょう。もちろん、それはわたしたち自身です。わたしたちも二千年前のマリア、ヨセフ、牛、ロバ、羊飼いや博士たちのように、幼子イエスを囲み、幼子イエスを見つめて集まっています(残念ながら犬は外で、車の中で待っていますが・・・)。
 ここにはいろいろな人がいます。フィリピンから来た人も、中国から来た人も。日本国内でもいろいろな地域から来た人。健康な人、病気がちな人。若い人、高齢の人。お金のある人、お金のない人。いろいろな人が集まっています。幼子イエスはどんな人でも迎え入れてくれます。神様はこのわたしたち一人一人、どんな人にも例外なく、いつくしみを注いでくださいます。

 わたしたちは皆、闇に輝く光であるイエスを見つめ、そのイエスの光に照らされています。世界の動きを見ていて、闇の力がものすごく大きく感じられることがあるかもしれません。自分の周りも真っ暗闇に感じるかもしれません。でももうすでにあの幼子イエスの光は確かな光として暗闇の中に輝いているのです。それは本当に小さな光です。しかし暗闇が光に打ち勝つことはできません(ヨハネ1・5)。
 幼子イエスの光がわたしたちの周りの人々にも広がっていきますように。全世界のすべての人、特に戦争や災害、貧困や差別の中にある人々に届きますように、今日、この主の公現の祭日にあたり、ご一緒に祈りたいと思います。


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