毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第4主日のミサ



あまりに立派な白菜をいただいたので、記念撮影。
これからこれでキムチを作ります。

●年間第4主日(世界こども助け合いの日)
 聖書箇所:申命記18・15-20/一コリント7・32-35/マルコ1・21-28
            カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の福音は、イエスがカファルナウムの会堂で、悪霊=汚れた霊を追い出した話です。悪霊って何でしょうか。もしかしたら、それは放射能のようなものではないか、とふと考えてしまいました。
 悪霊も放射能も目に見えません。でもそれは人間に大きな影響を与えます。聖書の世界で、悪霊とは人間の力を超えた悪の力で、人間にはどうすることもできないと考えられていました。放射能も除染とか言いますけれど、放射能それ自体を無害化することは人間にはできない、人間の力を超えたものです。そして、悪霊が人と人との関係を引き裂いていったように、放射能も人と人との間を引き裂きました。
 避難指示の出たところでは、人々は故郷から引き離され、バラバラにされました。避難指示の出ていないところでも、放射能の危険性に対する考え方の違いや置かれた立場の違いから、人と人は引き裂かれていきました。家族の中にも分断が起こりました。そしてさらに言えば、放射能に汚染されたと言われる福島と、日本のそれ以外のところにも分断を感じることがあります。だから放射能は悪霊のようだと、わたしは感じてしまうのです。
 
 聖書に出てくる悪霊、現代のわたしたちには確かに分かりにくいのですが、古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力をいろいろと感じていたようです。それを「息」とか「風」という言葉で表現しました。息も風も目に見えないけれど、大きな力を持つものだからです。旧約聖書のヘブライ語で「ルーアッハ」、新約聖書のギリシア語で「プネウマ」とは、元々は「息」や「風」を表す言葉で、これが今、日本語の聖書で「霊」と訳される言葉の原語です。
 この力が神から来たものであれば、それは「聖霊」です。聖霊の働きは基本的に、人を神に結びつけ、人と人とを愛によって結ぶことだと言えます。逆に神から来ない霊は、人を神から引き離し、人と人とを引き裂く働きをしていて、これが「悪霊」と呼ばれました。
 福音書に登場する「悪霊に取り憑かれた人」というのは現代で言えば、ある種の精神障害のようなものだったのかもしれません。全部がそうだったとは言いきれませんが、人とのコミュニケーションが取れず、それを本人も周囲の人間もどうすることもできないと感じたとき、古代の人はその状態を「悪霊に取り憑かれた」と表現したでしょう。

 イエスはそういう人々に出会いました。そしてそういう人をいやしたと伝えられています。イエスの確信は、父である神は決してこの人を見捨てていない、ということでした。この人の中に正気の部分、というか、神とつながる部分があると信じて、そして、他の人間ともつながる部分があると信じて、イエスはその人に関わっていきます。そのイエスの思いがその人に届いたとき(それを聖霊が働いたと言ってもいいのですが)、その人は悪霊から解放されていったのだ、と言ってもいいと思います。
 あまりにも現代的で合理的すぎる解釈でしょうか?
 でもわたしたちの周りにも大きな悪の力があります。人間にはどうすることもできないような悪の力の存在を嫌というほどわたしたちは感じさせられています。その悪の力にどう立ち向かったらいいのか分からなくなります。多くの場合、もっと大きな力でねじふせようとするやり方に走りそうになりますが、わたしたちはそのやり方をとりません。イエスのやり方にしたがって歩もうとします。それは聖霊に働きに信頼して人と関わるということです。

 人は人とつながることができる。人と人とは互いに理解し合うことができる。人と人は心を通わせることができる。そう信じて関わっていくのです。「お茶っこ」というのはそのための一つの方法です。そこにその人がいてもいい、その人の居場所ができます。その人は一人ぼっちではない、ということを感じ取ることのできる居場所です。「傾聴」というのも一つの方法です。その人その人の思いを尊重して、それをそのまま受け取ろうとするのです。「屋外作業」というのが一つの方法になることもあります。一人で元の家に帰り、自分だけではどうにも片付かない家や庭を、遠くから来たボランティアの人がみんなで片付けてくれる。それは実際に助かるというだけでなく、こんなに自分たちのことを思ってくれる人がいるんだ、という人とのつながりを感じさせられ、それによって励まされた人がいる、という話もよく耳にします。

 わたしたちはそういう働きをしていきます。わたしはカリタス南相馬のことだけを話しているのではありません。キリスト教は、カトリック教会は、そのために神から呼ばれ、そのために神によって派遣されている者の集まりです。
 放射能を悪霊のようだと言いましたが、放射能だけではないのです。わたしたちの周りに、人間を神から引き離し、人間と人間の間を引き離す力はたくさんあるように思います。消費社会の中であおられる物質的な欲望。自分さえよければという利己心。人に負けてなるものかという競争心。他人を非難し、否定する心。ある程度は必要なものもあるかもしれませんが、それらが大きくなりすぎると、人を神から引き離し、人と人との間を引き裂くものになっていくのです。わたしたちはイエスとともに、そういう悪霊のようなものと戦おうとしているのです。

 わたしたち一人一人をかぎりなく大切にしてくださる神に信頼し、わたしたち一人一人に働きかけてくださる聖霊の働きに信頼し、人と出会い、その人をありのままに受け止め、その人とともに一緒に良いもの見つけていこうとする。わたしたちにできることは本当に小さなことでしかありません。でもわたしたちの日々の行動と言葉が、あの、悪霊を追い出したイエスの働きに連なるものとなりますように、心から祈りたいと思います。


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