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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第5主日のミサ



この人形は、乾燥させて焼き上げるのに1ヶ月ぐらいかかります。
完成したものは山元町のみんなの図書館や普門寺で行われる今年の3.11の追悼行事で、奉納されます。

●年間第5主日
 聖書箇所:ヨブ7・1-4, 6-7/一コリント9・16-19, 22-23/マルコ1・29-39
2018/2/4 カトリック原町教会にて
 ホミリア
 昨日、CTVCカトリック東京ボランティアセンターの「被災地から語る」という催しがあって、東京に行ってきました。CTVCが震災以降、宮城県南部と福島で出会った人々の声を直接、首都圏の人に届けたいと願って、東京で講演会をしてきました。今回は21回目で、ただお話というだけでなく、お地蔵さん作りのワークショップという形でした。

 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県山元町にお住まいだった丹治陽子さんは、震災後、粘土でお地蔵さんを作り、焼き物にすることを始めました。別に地蔵菩薩でなくても良かったみたいですが、亡くなった方への思い、いろいろなものを失った思いを込めて、粘土をこねて何かを作る、というのが、亡くなられた方へのある種の供養や自分自身のいやしになると感じてきたそうです。それをわたしたちも一緒に作り、体験をとおして感じさせていただきました。親しみやすさを考えて「お地蔵さん」と呼んでいるそうです。丹治さんの作品には天使もありますし、なんとシスターもいました。
 「お地蔵さん」というのはもともと仏教の地蔵菩薩のことです。菩薩というのは、修行僧のことですが、修行者だからこそ、本当に人々の近くで見守っていてくれる、という感じがあるようです。子どもの姿で表されることも多くて、そのことも身近さを感じさせてくれます。そして、道端のようなところ、ごく身近なところに置かれています。丹治さんのお地蔵さんは「合掌して祈る」姿でした。そこにも「向こう側の人」ではなく、「こっち側の人」という印象を受けました。

 さて、今日の福音の中にイエスが祈る姿が伝えられています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」わたしたちはイエスに向かって祈ることがけっこうありますが、イエスが父である神に向かって祈っていた、その姿を思い浮かべながら、やはり、イエスを身近に感じられたらと思いました。「向こう側の人」ではなく、「こっち側の人」としてのイエスです。
 イエスが祈る姿をもっとも多く伝えているのはルカ福音書だと思いますが、マルコ福音書にもイエスの祈る姿があります。一番印象的な祈りは、最後の晩餐の後、逮捕される直前のゲツセマネの祈りでしょう。マルコ福音書の14章にこうあります。

 32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 イエスは好き好んで十字架にかかろうとするのではありません。人間的な思いとしては、なんとかしてこの十字架から逃れたいのです。ゲツセマネでイエスは必死の思いで祈りました。ここにはイエスが話したアラム語のまま、「アッバ」という言葉が伝えられています。「アッバ」は子どもが父親を呼ぶときの言葉です。神は「お父さん、パパ」、だから、どんなときも信頼して親しみを込めて、神に叫んでいいんだ。イエスはそう教え、ご自身も最後までそう祈りました。
 これは「願い求める祈り」です。「苦しいときの神頼み」といのはあまり良い意味ではないように聞こえますが、限界のある人間にとって、「願い求める」祈りは真実のものです。
 マタイ福音書に伝えられている言葉には、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」とあります。だから信頼して、願い続けるように、求め続けるようにとイエスは教えました。「天の父は求める者には必ず良いものを与えてくださる」「聖霊を与えてくださる」。ゲツセマネの祈りでもイエスは神に向かって必死に助けを求めました。

 でも実際に与えられたのは十字架でした。もしかしたら、人間の思いとは違うかもしれない、それでも神はその最も悲惨なことをとおして、もっと大きな救いに導いてくださる。イエスは祈りの中で、そのことを受け取って行きました。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」の後、イエスは「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ります。
 自分の精一杯の思いをぶつけながら、同時に自分の思いではなく、神の思いを受け取ろうとするのです。ここに「神に聴く祈り」があります。これも本当に祈りの中で大切なことです。伝統的に、「祈りとは神との対話だ」と言われますが、わたしたちの願いを一方的にぶつけるだけでは対話になりません。神から来るものを受け取ることが大切なのです。

 今日の福音のイエスの祈りも「神に聴く祈り」だったのではないかと思います。カファルナウムでイエスの活動が始まったばかりです。イエスは神の国の福音をのべ伝え、最初の弟子たちがイエスについてきます。病人はいやされ、悪霊に苦しめられていた人はそこから解放されました。イエスの評判は広がって行き、多くの人がイエスのもとに集まってきました。このまま、カファルナウムに留まっても何の問題もないでしょう。しかし、イエスが祈りの中で受け取ったものは、カファルナウムに留まることではありませんでした。
 「「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」これはイエスが祈りの中で受け取った御父のみ旨でした。ほかの町や村にも救いを必要としている人がいる。その人々のところに行くことこそ、神の望みだ。とイエスは祈りの中で感じ取ったのでしょう。

 わたしたちの中にも、両方の祈りがあります。
 神に信頼して、必死の思いで神に願い求める祈り。そしてそれが与えられたときの感謝の祈りもあります。
 それだけでなく、やはり神に聴く祈りもあるでしょう。人間的にうまく行っているときも、逆に思い通りにならないときも、神の本当の望みは何か?このわたしをとおして神は今、何をなさろうとしているのか?そのことを祈りの中で、受け取って行くのです。

 今日の福音のイエスとともに、ゲツセマネのイエスとともに、祈り続けましょう。


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