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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第6主日のミサ



強風で常磐線のダイヤが激しく乱れていたこともあり、バスで福島に向かいました。
南相馬は晴れていたのに、飯舘村は雪です!

●年間第6主日、世界病者の日
 聖書箇所:創世記3・16-19/一コリント10・31〜11・1/マルコ1・40-45
       2018.2.11カトリック原町教会にて
 ホミリア
 土曜日に大阪で集まりがあったので、金曜日に大阪に行き、金曜日は大阪に住む姪の家に泊まりました。姪夫妻には4歳になる男の子と生後7ヶ月の女の子、二人の子どもがいます。男の子の方は3歳の時に自閉症と診断されています。今回はどうしてもその子と妹に会いたくて姪の家に行きました。何時間かですけれど、一緒に時を過ごすことができてとても良かったです。確かに目はなかなか合わないし、会話もあまり成り立たない、繰り返し同じことばかりしている。その他、自閉症の特徴が感じられましたが、でも同時にいろいろとできることもあって、それを発見するたびに驚きと喜びをかんじました。お母さんと一緒にプリンを作ったり、服を自分で着替えたり、色鉛筆で電車の絵を書いたり、色鉛筆を削ってあげて「どうぞ」と言って渡すと「ありがとう」と言ったり。まあそんなことですが、でも嬉しかったです。
 二人の子どもと触れ合って遊ぶというのはとても久しぶりの経験でした。兄のほうは運動神経が発達していて、人の背中に飛び乗ってくるのが大好きで、何度も乗られました。妹のほうは両手で持ち上げて「高い高い」としてあげるとステキな笑顔を見せてくれます。子どもが育って行く中で、人と触れるということはとても大切なのだと感じました。触れるということは人との間の信頼感、そして人との関係の中での安心感を感じるとても大切なことなのだと思いました。と同時に、「ああ、わたしはふだん、人に触れるということがほとんどない」とも感じさせられました。

 今日の福音でイエスは病気の人に触れました。イエスに触れられたこの病人はどれほど嬉しかったことでしょうか。そして、ここでの「触れる」ということには特別な意味がありました。
 この人は「重い皮膚病」でした。現代で言う、ハンセン病と重なる部分も多い病気ですが、旧約聖書ではこの病気は伝染病というより、「汚れ」と考えられていました。「宗教的に汚れた人間」、つまり神から程遠い人間で、決して救われることのない人と見られていました。神から完全に断ち切られていました。さらにレビ記13章ではこうも言われています。
 「45重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。46この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
 自分で自分のことを「わたしは汚れた者です」というように命じられていたのです。それはうっかり人が近づいて人に汚れを移さないためということですが、どれほど辛いことでしょうか。そして「宿営の外」に住まなければならない。普通の人々の共同体から追放され、人との関係も絶たれてしまうのです。
 イエスはその人に触れました。それは、あなたは神からも人からも見捨てられた人間ではない、というメッセージでした。
 本当はだれもその病人に触れてはいけないはずでした。それは触れると汚れが移るからです。イエスがその人に触れたのは、イエスには汚れが移らないからでしょうか。そうではなく、汚れも含め、その人の背負わされているすべての苦しみを、ご自分の身に引き受けていくという思いが、イエスの触れるという行為には表れているように感じます。

 「宿営の外」という言葉でもう一つの出会いを思い出しました。
 それは群馬県の草津にある国立のハンセン病療養所・栗生楽泉園にいらした米塚尚司さんという方との出会いです。米塚さんは2017年7月9日に88歳で天に召されました。もう随分前に、わたしは何人かの青年と一緒に栗生楽泉園を訪問し、そこで米塚さんのお話をうかがいました。
 米塚さんはハンセン病の患者として、長く療養所で生活し、そこで聖書に出会いました。聖書を繰り返し、ていねいに読んでいましたが、キリストを信じるには至りませんでした。米塚さんを変えた聖書の言葉は、ヘブライ人への手紙13章12節の言葉でした。
 「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われた」
 米塚さんはレビ記のあの箇所を何度も何度も読んでいました。そしてこのヘブライ書の箇所を読んだとき、二つの箇所が結びつき、イエスはハンセン病者として十字架にかかったのではないか、と感じたのです。確かにイエスが十字架にかかったゴルゴタの丘は処刑場であって、当時で言えば、エルサレムの町の門の外にありました。4つの福音書はわざわざそれが城門の外だったとは言いません。でもヘブライ書はなぜかそのことにこだわり、わざわざ「門の外で苦難に遭われた」というのです。ユダヤの指導者たちから排斥され、人々から見放され、弟子たちにも見捨てられたイエスの姿と、人々の共同体から追放されたハンセン病者の姿が、米塚さんの中で結びついたのです。そして米塚さんはキリストを信じるようになった、そういう話をしてくれたのです。

 今日の福音でイエスは重い皮膚病の人に触れました。その人々の重荷を、痛みを、苦しみを我が身に引き受け、そのことをとおして、「あなたは神からも人からも見捨てられていない、決して神と人から断ち切られた人間ではないのだ」ということを、伝えていったイエスの姿を思い起こしたいと思います。そして最後の最後、十字架の場面で、あららゆる人の苦しみと一つになられたイエスの姿も思い起こしたい。
 そのイエスを今日も思い、そのイエスの生き方にわたしたちが少しでも近くことができるよう願い、病者の日にあたり、震災7年11ヶ月の日にあたり、心を込めて祈りたいと思います。


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