毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第二主日のミサ



盛岡市内3教会合同の四旬節黙想会が、カトリック四ツ家教会で行われ、わたしが指導させていただきました。
写真は四ツ家教会聖堂のマリア様。きれいでやさしいお顔をしています。

●四旬節第2主日
 聖書箇所:創世記22・1-2, 9a, 10-13, 15-18/ローマ8・31b-34/マルコ9・2-10
             2018.2.25カトリック四ツ家教会にて
 ホミリア
 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」ペトロはイエスの姿が山の上で光り輝くのを見て、そう言いました。わたしは今、福島県南相馬市の原町教会にいて、ほんとうにそのように感じています。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」そこにイエスの姿が輝いているからです。

 そこの土地は深く傷ついている土地です。東日本大震災と大津波によって多くの人の命が奪われ、家や大切なものを失いました。そして東京電力福島第一原発の事故によって、多くの人が生活を根こそぎ奪われました。その影響は今も続いています。
 わたしは東京教区の補佐司教です。震災のあと、ボランティアが首都圏から被災地に行きやすくするための仕組みを作ろうと、カトリック東京ボランティアセンターを立ち上げ、2011年4月終わりから岩手県や宮城県沿岸の被災地にボランティアを送り始めました。その年の6月、司教総会のときに、オールジャパンの支援体制の中で、大きな地区割りができました。東京の教会には、宮城県南部と福島県での活動を検討することが求められました。わたしはカトリック東京ボランティアセンターのスタッフと一緒に7月に初めて福島に入り、それからずっと福島との関わりを続けています。
 一昨年の12月、福島県南相馬市の原町教会から司祭がいなくなると聞いて、わたしはちょうど動ける立場にいたので、原町教会に来ることになりました。それから一年ちょっと原町教会にいます。そしてこの春、正式に東京教区がわたしを仙台教区に派遣してくれることになり、もう少し、福島で働かせていただくことになりました。

 原町教会の敷地内には、さゆり幼稚園があり、一昨年12月には同じ敷地内にカリタス原町ベースの新しい建物も建ち、カリタス南相馬として活動を続けています。そこは福島第一原発から北へ25kmのところに位置しています。
 仮設住宅を出た人たちが、集まる場がほしいというというので、日中は、カリタス南相馬のホールを、その人たちのサロンの場所として提供しています。毎日、小物を作る手芸をしていて、わたしたちもそれに交じりながら、話し相手になったりしています。さゆり幼稚園では、職員の確保がなかなか難しいという事情があるので、延長保育の子どもの見守りの手伝いもしています。そんなボランティア活動があります。
 いまだに屋外作業もあります。原町教会よりもっと原発に近い、南相馬市小高区は5年間、さらに10km 圏内の浪江町の一部は6年間、居住が許されませんでした。ようやく住めるようになって、帰っていく人はほとんど高齢者ばかりです。そういう人の家の庭の整備や家の中の片付け、引っ越しなどを手伝うボランティアがあります。店も病院も近所の人もほとんどない場所に帰っていく人たちは、自分たちがぽつんと見捨てられているかのように感じていることも多いようです。日本全国から、時には海外からくるボランティアの人たちの存在は、そういう人たちを励ますことになっているそうです。

 元の家に帰る人、新しい家に住むことに決めた人。その人々はそれなりに新しい生活を始めようとしています。でももっと難しい状況にいる人もいます。孤立して、どうしていいか分からず、追い詰められていく人がいます。そういう人たちはサロンにも顔をださないし、ボランティアに助けを求めることもありません。なかなか出会うことが難しいのですが、少しずつですが、そういう人たちとも出会わせていただくようになっています。
 その他、いろいろな活動があります。ボランティアの皆さん、スタッフ、いろいろな会のシスター、数は少ないですが教会のメンバー、さまざまな人がそこで働いています。たいしたことはできないかもしれません。でも、どれだけのことをするか、ということよりも、とにかくそこにいる、ということが大切だと感じています。

 福島にいると福島に対する誤解や偏見を感じさせられます。福島県はどこも放射能に汚染されているというような誤解。もちろん今も放射線量の非常に高いところもありますが、多くの場所は人も住めるし、農作物も安全なレベルになっています。福島県だけが放射能に汚染されているという誤解もあります。「福島」を特別視して、差別したり、排除したりする。福島の子どもに対するいじめも悲しいことです。何か日本全体から福島だけが切り離されて、置き去りにされ、忘れられていく。そう感じることがあるのです。
 だからこそ、わたしたちがそこにいる、ということの意味を感じています。

 わたしたちはキリストがまさにその厳しい現実の中にいると信じています。受難の道を歩み、復活の輝きに入られたイエスが、この原発事故の地にいてくださる、と信じています。その地の人たちと一緒に泣いたり、笑ったりしながら、日々を過ごす。そこにキリストがいてくださる、日々の小さな出来事のことの中にそのように感じさせられています。
 盛岡の皆さんにも、ぜひ来ていただきたいと願っていますが、それが無理でも、福島の原発事故の被災地で、今、精一杯生きようとしている人がいる、そのことを心のどこかで忘れずに、祈っていていただきたいと思います。
 いや苦しんでいるのは福島だけではありません。世界中の困難な状況にある地域で、あるいは、もっと身近な、ごく近いところで、さまざまな苦しみを抱えながら生きている現実は必ずあります。わたしたちは十字架のイエスがそこにいてくださると信じています。キリストと共にわたしたちが受難から栄光へ。死からいのちへの歩みをしっかりと歩むことができますように、この四旬節にあたってご一緒に祈りたいと思います。


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