毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第3主日のミサ



仙台市にある元寺小路教会、八木山教会合同の四旬節黙想会の講師として招かれました。
講話のテーマは「兄弟であるイエス〜ヘブライ人への手紙をとおしてのイエスの受難の黙想」でした。

写真は広瀬川畔にある仙台キリシタン殉教碑です。
1624年2月、キリシタンの司祭、信徒計9人がここで水責めによる殉教を遂げました。

●四旬節第3主日
 聖書箇所:出エジプト20・1-17/一コリント1・22-25/ヨハネ2・13-25
           2018.3.4 カトリック元寺小路教会にて
 ホミリア
 今日の福音は、イエスが神殿で商人たちを追い払った出来事。マルコ、マタイ、ルカの福音書にもありますが、ヨハネ福音書から読まれた。神殿とは「神がそこに住まい、神と人とが出会う場」です。ただし、「神は人間の手で作った地上の神殿にはお住みにならない。神殿は神がその名を置くと誓われた場なのだ」という考えもありました。でもとにかく神殿とは、神と人とが出会う場です。
 今日の福音は本当の神殿とは何か?本当にわたしたちはどこで神と出会うのか、ということを問いかけています。

 イエスはこの箇所で「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われます。ある人はこの言葉の背景には、ゼカリヤ書の預言があるのではないかと言いました。旧約聖書のゼカリヤ書という預言書の結びに、「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(ゼカリヤ14・21)という言葉があります。この商人たちは、いけにえの動物を売ったり、神殿に献金するお金をローマ帝国の貨幣から伝統的なユダヤの貨幣に両替するというような商売をしていました。つまり神殿がある以上、必要な商売だったと言えます。ゼカリヤ書で、決定的に神の救いが実現する日に「神殿に商人がいなくなる」理由は、こう書かれています。「(その日には、)エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る」(ゼカリヤ14・21)。つまり救いの完成のときには、日常生活のすべてが聖とされ、日常生活のすべてが神との出会いの場になる。だからもはやいけにえの動物を売る商人はいらない、ということは神殿もいらなくなる。その新しい救いの時代がもう始まっている、今日の出来事はそう告げているとも考えられます。
 それはわたしたちの中で実現しているでしょうか。本当にわたしたちは日常の生活の中で神と出会うことができているでしょうか。

今わたしは福島県南相馬市のカトリック原町教会にいます。この四月から仙台教区に正式派遣となりましたが、第6地区の一人として働かせていただいています。でも原町教会の特別な事情もあって、わたしはほとんどそこだけを担当することになっています。
 一昨年からカリタス南相馬が教会の隣で活動しています。スタッフとシスター、さまざまなボランティアの皆さんがいて、日中はそれぞれの活動をしています。ボランティアは屋外作業もまだあります。避難指示が解除になって家に帰ろうという人は高齢者が多いのですが、その家の片付けや引っ越し、庭の整備などのボランティアがあります。先日、原発から20km圏内の南相馬市小高区にあった社協の災害ボランティアセンターは閉じられました。でももっと原発に近い浪江町はまだこれからという感じです。カリタスのホールでのサロンや、それ以外のところで行われるサロンの手伝い。幼稚園の延長保育(見守り)の補助。そしてそれらの活動を支える事務作業や食事作り。夕食の前に振り返りをします。全員が輪になって沈黙のうちに今日の活動を振り返り、分かち合います。それはとても大切な時間。そしてもう一つの振り返りもあります。それは夕食後に行われる聖堂での祈りの時間です。詩編を唱えるような祈りではなく、ほとんど沈黙のときを過ごします。こちらは自由参加で、ほとんどシスターと信徒だけが参加しています。この時間もとても貴重です。それぞれが神様の前で一日を振り返るのです。今日1日、神がどのようにともにいてくださったか、どのように神に出会ったかを味わうのです。
 祈りの中で、一日を振り返る、一週間を振り返る。それはとても大切。その中で自分の生活の中での神との出会いを感じることがきっとできると思います。いや忙しくて、と言いますね。でもその時間は大切。せめて食事の前の一瞬でもそうできたらいい。

 今日の福音のもう一つの大きなテーマは「死んで復活するイエスの体こそが神殿」ということです。あのイエスにおいてわたしたちは神と出会う。イエスはわたしたちを愛し、わたしたちのために十字架にかかって、いのちをささげてくださった。そのイエスは今も生きていて、わたしたちを支え、導いてくださる。そのイエスにおいて、わたしたちは神に出会っている。そのことが実感できるでしょうか。そのことを一番強く感じられるのは、わたしたちにとって、やはりこのミサではないかと思います。仙台では町の真ん中の便利なところに元寺小路教会があって、ここに来て祈れば神に出会える。それもそうかもしれませんが、教会は神殿ではない。わたしたちの信仰は根本的には神殿のような特定の場所を必要としない信仰です。どこであっても、元寺小路でも八木山でも原町でも、どこであってもミサのあるところ、そこで神に出会うことができる。
 ミサでも大切にしたいのは「振り返り」です。ミサの始まる前、教会に早めに来ても、教会に来る途中でもいいのですが、一週間の生活を神の前で振り返ります。神様がどのように支えてくださったか、どのように共にいて、導いてくださったか。人をとおして、仕事をとおして、家族をとおして、どんな恵みをくださったか、振り返ることを大切にしたいと思います。そこからミサに入っていくのです。ミサのはじめに、回心の祈りの前の短い沈黙がありますが、それだけでは足りない。ミサの始まる前の時間を大切にして、その中で生活を振り返ることは大切です。

 ミサの中では、いつも聖書をとおして神のなさったこと、イエスのなさったことを振り返ります。そして後半では毎回同じですが、パンとぶどう酒を用いて、イエスの死と復活の神秘を振り返ります。そのあと、大切にしたいのは聖体拝領後の沈黙の時間です。神との出会いを深める時間として大切にしたいと思います。カリタスに来た人で信者でなくてもミサに参加する人がいます。ある新聞記者の方は毎朝ミサに出て、よく観察していて、いろいろと質問してきました。「なぜ皿や杯を片付けることまで人前で儀式としてするんですか?」と聞かれたことがあります。もちろん祭具の片付けは本質的なことではありませんね。でもその時間を取るのは、沈黙の祈りの時間をとるためです。これも大切にしたいときです。
 日常の生活を振り返り、そこに神との出会いを見つけていく。そのための祈りやミサ、それを大切にしながら、特にこの四旬節のときを過ごしたいと思います。




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