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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第5主日のミサ



写真は南相馬市小高区にある小高城跡(小高神社)の紅梅です。
小高区は「紅梅の里」とも呼ばれています。

今日19日(月)、このすぐそばで、援助マリア修道会南相馬修道院の祝別ミサをささげました。
4月から3人のシスターたちがここに住むことになります。
ここは福島第一原発から20km圏内の旧警戒区域。
2016年7月に避難指示は解除されましたが、帰還している人のほとんどが高齢者です。

●四旬節第5主日
 聖書箇所:エレミヤ31・31-34/ヘブライ5・7-9/ヨハネ12・20-33
        2018.3.18カトリック原町教会にて
 ホミリア
 四旬節の第1から第5主日までのミサの第一朗読は特徴的です。ふだんは福音の箇所に関連する旧約の箇所が第一朗読で読まれますが、この期間はそれとは違い、第一朗読だけの独自の流れをもっています。第1〜第5主日の第一朗読では救いの歴史を回顧するのです。キリストまでの時代、神がどれほど長い年月をかけて、人類の救いを準備してくださったか、ということを味わいます。創造、アブラハムとの契約、エジプト脱出、王国時代の栄光と挫折、預言者による将来の救いへの希望。
 今日の第一朗読は、エレミヤ預言書の「新しい契約」の箇所。わたしたちはもうすでにこの新しい契約の中を生きています。「新約聖書」の「新約」とはこの新しい契約のことですし、ミサの中の、ぶどう酒の聖別の言葉でもいつも聞いています。「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる、新しい永遠の契約の血である」

 「新しい契約」の特徴は何でしょうか。それは、エレミヤによれば、律法がモーセの時代のように石の板に書き記されるのではなく、わたしたちの「心に書き記される」ということです。だからわたしたちはそれを行い、神のみこころを本当に生きることができるようになる、これが新しい契約です。古い契約では石の板に書かれた律法を一生懸命守ろうとしてもどうしてもできなかった。人間は神との契約を破ってばかりいた。でもそうではなくなる。
 では、どうしたら律法が、神のみ旨がわたしたちの心に書き記されるのか。

 それはイエスの生き方が、イエスの死がわたしたちの心をゆさぶるからです。
 第二朗読と同じヘブライ書にこういう言葉があります。
 「御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(9・14)
 「良心」と訳されている言葉は、ここではただ「心」と訳してもいい。「心の深いところ」という意味です。キリストの血がわたしたちの心を清め、本当に神を結びあわせてくださる、というのです。ここで語られるのは、何かの祭儀を行うことによって自動的に得られるような「祭儀的な救い」ではありません。自分の力で努力して律法を守ろうとする「ファリサイ派的な救い」でもありません。あのイエスの生き方、死に方を知ったときに、わたしたちの生き方が変えられていく、というキリスト教の体験そのものなのです。
 
 イエスの生き方が迫ってきたときに、わたしたちは変えられる。今日、特に、二つのことを味わいたいと思います。
 一つは第二朗読のヘブライ書です。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブライ5・7)
 ゲツセマネの園での祈りを思わせる箇所です。イエスは人間的な意味では死にたくて死ぬわけではない。なんとか助かりたい。必死で祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と同時にこうも祈りました。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」私の思いではなく、あなたの思いが、わたしの意志ではなく、あなたの意思が実現しますように、そう言って神にすべてを委ねていきました。イエスの十字架とはその徹底的な神に聞き従うことの頂点でした。そのイエスの姿がわたしたちの心を撃つのです。

 もう一つは今日の福音の「一粒の麦」。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ」と言いますが、現代人は地に落ちた麦粒は死ぬのではない、と言うかもしれません。でも一粒の麦が必死に自分を守ろうとして、硬く殻を閉ざしているというのではなく、自分の殻を破って、周りから水分や養分を取り入れ、麦粒である自分を壊して、もっと豊かないのちになっていくというイメージを持ったらいいのではないでしょうか。イエスの生き方とは、イエスの死とは、まさにそういうものでした。自分を守るのではなく、もっと大きな神とのつながり人とのつながりの中に自分を差し出していく。そこに本当のいのちがあった。わたしたちはそのイエスのいのちに触れて、心を揺さぶられるのです

 「新しい契約」それはいつもあのイエスの十字架、イエスの流された血がわたしたちの心に突き刺さってくるところから始まります。
 そこからわたしたち自身の生き方が変わるのです。
 思い通りにならない現実の中で、必死に祈りながら、神に従う道を歩もうとする。
 自分の殻を必死で守ろうとする中で行き詰まっているときに、もっと大きないのちのつながりの世界に出会う。
 本当に信仰と愛を生きることができる。これが「新しい契約」の恵みの世界です。

 ミサはこの新しい契約の祝いです。ミサのたびにイエスの生き方と死に方が迫って来るのです。いつの間にか、馴れっこになって、そんなに響かなくなってしまっているかもしれません。でも今日、あらためてイエスの生と死と復活のいのちに触れて、わたしたちが新たにされる、その恵みを祈りながら、このミサを祝いたいと思います。



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