毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖木曜日 主の晩さん





おいしい卵です。にわとりの種類は「岡崎おうはん」。大人のにわとりもひよこも黒っぽい種類です。
黄色くないひよこを初めて見たわれわれはびっくり。
でもかわいかったです。

●聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサ
 聖書箇所:出エジプト12・1-8、11-14/一コリント11・23-26/ヨハネ13・1-15
    2018.3.26カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしは先日、カリタス南相馬で毎日行われている眞こころサロンの皆さんと一緒にイチゴ狩りに行ってきました。その帰りに、相馬市にある大野村農園というところに寄りました。急に決まったことで、電話して30分後に農園に着いたのですが、ていねいに案内してくださいました。その人は菊地将兵さんという30代の男性、震災後に故郷の相馬に帰って来て農業を始めました。その農園は生後1日のひよこから自家製の飼料で鶏を育て、ケージではなく平らな地面の上で鶏を飼い、強い鶏が産むほんものの卵を作ろうといる場所でした。彼の話はとても興味深いものでした。その時聞いた話ではありませんが、わたしはインターネットで彼の体験記を読んでいて、興味を持っていました。彼はマザーテレサの本を読んで、日本にも貧しい人がいる、自分の周りにもいる、と気づきました。そこで当時住んでいた横浜でホームレスの支援を始めましたが、食べ物のない人に食べ物を配るのにも限界がある。それなら農業をやって自分で食糧を作ればいい、と考えて農業を志したそうです。日本各地で農業を学んでいる時に、東日本大震災と原発事故が起こって、やはり故郷の相馬でやろうと決心して戻ってきたのです。彼の卵は10個入り830円と高いのですが、話を聞けば値段も納得できますし、売り上げの一部は貧しい人のために使われているそうです。その菊地さんの今の生き方のもとに、マザーテレサの生き方に感動したことがあったというのが興味深いと思いました。

 さて、マザーテレサの有名な言葉に「わたしは毎日二回、聖体拝領している」という言葉があります。一度は、朝の修道院のミサの中で、パンの形でイエスをいただく。もう一度は、日中、コルカタの街に出て行って、道端で倒れ、死を待つだけのような貧しい人をとおして、イエスと出会わせていただく。イエスをいただいている。今日、最初のミサの記念である、主の晩さんの夕べのミサを祝う中で、このマザーテレサの言葉を特に思い出したい。聖体を祝うこと・ミサを祝うことは隣人愛と切り離せないからです。

 ミサのもっとも古い記録は、今日の第二朗読で読まれましたが、パウロのコリントへの第一の手紙にあります。この手紙は紀元50年代に書かれました。福音書より古いものです。当時、このキリスト者の集まりは「主の晩さん」と呼ばれていました。今のミサのようなパンとぶどう酒の式がそこにありますが、キリスト者が一緒にする会食も行われていました。ただ、そこに問題がありました。それはまず教会の中の仲間割れでした。また、先に来た人が食べ物を食べてしまうので、後から来た貧しい人の食べ物がなくなる、という問題もありました。問題はお互いの間に愛がない、貧しい人への心遣いがないことだったのです。そこで、パウロは自分たちがしていることの意味を思い出させます。
 「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」(11・23-25)
 「記念」という言葉をパウロはパンについてもぶどう酒についても語って強調しています。「記念として」とは「思い出すために」ということです。このパンはすべての人のためにご自分の与え尽くしたイエスの愛を思い起こすためのものではないか。この杯は、すべての人の救いのためにご自分の血を流されたキリストの愛を思い起こすためのものではないか。このキリストのいのち賭けの愛を記念しながら、わたしたちの中に愛がなかったら、それは偽りではないか、というのですね。厳しいです。今のわたしたちにとっても厳しい言葉だと思います。

 福音は最後の晩さんの席でイエスが弟子たちの足を洗ったという場面。これも最後の晩さんの中でのイエスの思いをよく表すものです。
 足を洗うのは、しもべが主人に対してすることでした。その行為をイエスは弟子たちに対して行いました。そしてこう言われます。「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」
 この言葉は、その後の長い説教に出てくるあの有名な言葉とつながっています。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15・12)そしてそこでもイエスはこう続けました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(15・13-15)
 主人としもべ、上と下ではない、対等な関係、それが「友」という言葉で示されています。「友のために自分の命を捨てること」とありますが、これはわたしたちの互いの愛のことである以前に、イエスの十字架の愛を表しているのです。その十字架の愛を知ったのだから、だからわたしたちが兄弟姉妹として互いに仕え合い、大切にし合うのは当然ではないか、というのです。

 ミサとはキリストの愛の記念です。ミサを祝いながら、わたしたちは少しでもキリストの愛に近づいていきたいのです。日々のいろいろな人との出会いの中で、わたしたち同士のお互いの関係の中で、キリストの愛を生きることができますように、心から願いつつ、この主の晩さんを行いましょう。


PageTop