毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

受難の主日 ミサの説教

受難の主日(マタイ27・11-54)
2011/04/17本郷にて

 ミサのはじめに、イエスのエルサレム入城を記念しました。今年はマタイ福音書からその場面が読まれました。マタイは、「柔和な方で、ろばに乗り」と言います。「柔和」という言葉が特徴的ですので、この言葉についてお話したいと思いました。この「柔和」はギリシア語では「プラユス」です。この言葉は、福音書の中に3回しか使われていません。3回ともマタイ福音書の中にあります。1回は山上の説教のはじめ、八つの幸いの中です。「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。2回目は11章。この箇所も有名です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」そして3回目がこのエルサレム入城の場面です。

 柔和と訳されていますが、背景には「アナウ」というヘブライ語の言葉があります。これは普通「貧しい」と訳される言葉ですが、本来は「身をかがめて小さくなっている様子」を表す言葉だそうです。経済的やその他の理由で圧迫され、小さくなっている人という意味で「貧しい人」や「虐げられている人」の意味になります。また自ら自分を小さくしている人、日本語で言えば腰の低い人という意味で「柔和な人」「へりくだる人」という意味にもなります。

 今日の箇所の背景にあるのは旧約聖書のゼカリヤ書ですが、預言者ゼカリヤは理想的な王の到来を告げました。この王の特徴は馬に乗ってくるのではなく、ろばに乗って来ることでした。そこには2つの意味があります。馬は戦いの動物でしたが、ろばは農耕や荷運びに用いられた家畜です。つまり、この王は戦争で勝利を得る王ではなく平和の王である、ということが1つの意味。もう1つは、馬が富や権威の象徴であるのに対して、ろばは貧しさの象徴であって、王がへりくだって来る方であることを意味しています。人間の考える王とはまったく違う王。それがまさにイエスにおいて実現した本当のメシア王の姿でした。

 そういう意味でこの「柔和な」という言葉はイエスを理解するときにとても大切な言葉です。マタイ福音書は、そういうイエスの姿を見ています。人々の上に立って、上から人を見下ろし、指図するような王ではないのです。むしろ、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(8・17)。本当に人々の貧しさや弱さをともに担ってくださる方。それがイエスです。だからそのイエスは最後の説教でこう言いました。
 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」・・・「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・35-36,40)

 話が広がりすぎているでしょうか?でも、このイエスの生き方の極限の姿が十字架なのです。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
 十字架の上で、そう叫ぶイエスは、苦しみと悲しみのどん底にあります。絶望のどん底と言っていいかもしれません。神から見捨てられ、人からも見捨てられた姿。表面的には確かにそうとしか見えなかったでしょう。
しかし、その十字架の中でこそイエスは苦しむ人、絶望的な状態にあるすべての人とつながっているのです。飢え渇き、住まいを失い、着るものも持たず、弱り果てたすべての人とつながっているのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」これは詩編22の言葉です。何千年にもわたって、どれほど多くの人々がこう叫んできたことでしょうか。今もどれほど多くの人がこう叫んでいるでしょうか。イエスはその一員なのです。

 今年、わたしたちは、特別な思いでイエスの十字架を仰ぎ見ていると思います。あまりにも大きな地震が、津波が、原発事故がわたしたちを襲いました。たくさんの命が失われ、たくさんの人が家族や友人を失いました。家や仕事を失った人の数も膨大です。今も多くの人が悲しみと不安の中に生活しています。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
 わたしたちも今日、この祈りを、叫びを神にささげます。そうすることしかできないからです。

 でもわたしたちキリスト者は知っています。イエスの苦しみがただ苦しみで終わらなかったことを。絶望は希望に変えられていったことを、悲しみは喜びに変えられていったことを。イエスの死はすべての終わりではなく、そこから本当の復活のいのちが始まったことを。わたしたちは知り、信じています。
 そこにこそ、この十字架の中にこそ、十字架の死から復活のいのちへの過越にこそ、わたしたちの信仰と希望と愛の源があるのです。

 (下の画像は、ペトロの家の十字架のイエス像です)

crucifixion

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