毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖金曜日 主の受難



水芭蕉の咲いている場所を教えてもらったので、行ってきました。
原町の住宅街のすぐそばです。
周囲にはコブシ、サクラ、ハナモモ、スイセン、ユキヤナギなどが咲き乱れています。
でもそちらは明日、紹介することにしましょう。

●聖金曜日 主の受難(大斎・小斎)
 聖書箇所:イザヤ52・13~53・12/ヘブライ4・14-16、5・7-9/ヨハネ18・1~19・42
    2018.3.30カトリック原町教会
 ホミリア
 「十字架の縦の木は神と人とを結ぶ木。横の木は人と人とを結ぶ木」と言った人がいました。この言葉を少し味わいたい。
 神と人とを隔てているのは何か。一言で言えばわたしたちの「罪」。「罪」とは何かの掟に背くことというよりも、神とのつながりを忘れて、自分さえ良ければと思うこと。根本にあるのは「傲慢とエゴイズム」です。現代では「傲慢さ」や「エゴイズム」は人間の性(さが)であって「それがあって当然」というような考えも結構強くあります。でも、そうなると神との間にどうしようもない隔たりが生まれてしまいます。
 イエスの生き方は逆でした。イエスは十字架の苦しみの中で自分を低くし、徹底的に神に従う生き方を貫かれた。それは今日の第二朗読のヘブライ書が語ることです。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5・7-8)
 この神に対する従順と信頼によってイエスは完全に神に受け入れられました。だからこそ、イエスは完全に神と人とを一つに結ぶ方となられた。これが十字架の縦の木が神と人とを一つに結ぶという意味でしょう。

 人と人とを隔てているのは「敵意」です。エフェソの手紙でパウロがいうとおり「キリストはわたしたちの平和」であり、「御自分の肉において敵意(ギリシア語echthra)という隔ての壁を取り壊し、」(2・14)、「十字架によって敵意を滅ぼされました」(2・16)
 パウロがこの箇所で語っているのは、特にユダヤ人と異邦人の間にあった敵意、隔ての壁の問題でした。わたしたちの時代にも同じようなことがあります。特定の国や民族に対する敵意や蔑視があまりにも当然のように語られている悲しい現実があります。身近なところにも敵意や憎しみ、嫉妬心を感じることがあります。さらにもう一つ、人と人との間を隔てているものがあります。それはマザーテレサやフランシスコ教皇が繰り返し警告している「無関心」です。これも現代の大きな問題です。まるでイエスが今も十字架に掛かり続けているかのようです。
 十字架のイエスは敵意に敵意で報いることなく、憎しみに憎しみで返すことがありませんでした。最後まで出会ったすべての人を愛し、ゆるし抜いた姿があります。人々の無関心に対して、イエスは深い共感のこころを示し続けました。そこに決定的に、人と人との間の隔たりを乗り越える道を見るのです。これが「十字架の横の木は人と人とを結ぶ木」というイメージにつながります。

 今日、わたしたちはイエスの十字架を見つめます。それは表面的に見れば、どうしようもなく引き裂かれていく姿に見えるかもしれません。神から引き裂かれた姿。人からも引き裂かれた姿。その中でイエスは、本当に神と人、人と人とを一つに結んでくださった。その十字架の救いの神秘を祝います。英語で聖金曜日をGood Friday(良い金曜日)と言います。あのイエスの十字架にこそ、人類の救いがあるからです。
 その十字架のイエスを見つめながら、わたしたちが傲慢とエゴイズムから、敵意と憎しみと無関心から解放されていくことができますよう、心から祈りましょう。


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