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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活の主日 復活徹夜祭







主の復活、おめでとうございます。
昨日の復活徹夜祭に、原町教会でも洗礼式・堅信式が行われました。
おめでとうございます。

写真は前日に紹介した水芭蕉の周辺の花々です。
新しいいのちが咲き誇っていました。

●復活の主日・復活徹夜祭
 聖書箇所:出エジプト14・15~15・1aほか/ローマ6・3-11/マルコ16・1-7
    2018.3.31カトリック原町教会
 ホミリア
 イエスが十字架で息を引き取ってから三日目の早朝、女性の弟子たちはイエスの墓に行き、そこで天使から「イエスは復活した」と告げられました。そこで、その夜が明ける前にイエスは復活したということになりました。そのため、古代からこの夜、夜を徹して復活を祝うようになりました。これが復活徹夜祭です。今のカトリック教会ではコンパクトになっていますが、それでもずいぶん長いミサです。
 4つのことをもって復活を祝います。最初は「光の祭儀」。新しい火を灯された復活ろうそうを用いて、死の暗闇に打ち勝ったキリストのいのちの光をたたえます。次は長い「ことばの典礼」。旧約聖書の朗読だけでも最低3つ行われます。神が人類の歴史をとおして、長い時間をかけて救いを準備してくださったことを思い起こし、イエスの死と復活という決定的な救いの神秘を深く味わいます。それから「洗礼と堅信」。キリストとともに古い自分に死んで、キリストとともに新たないのちによみがえる。洗礼はこのことを表すので、古代の教会の伝統に基づき、この復活徹夜祭で洗礼式が行われます。今日はプロテスタントで洗礼を受けられた2人の方をカトリック教会に受け入れる式もここで行い、それから3人の方に堅信の秘跡を授けます。そして「感謝の典礼」。いつもミサのたびにしていることですが、復活されたキリストを囲んで、喜びの食卓を共にします。
 
 特に今日は洗礼のことを話したいと思います。
 洗礼は元々のギリシア語で「バプティスマ」と言います。バプティスマは「水の中に沈める、浸す」という意味の言葉から来ています。元々は人間の体を全身、水の中に沈めることでした。一旦、水の中に沈んで、そこから立ち上がる。これは死と復活のイメージです。洗礼の根本的な意味は、先ほど読まれた使徒パウロのローマの教会への手紙にあるように、キリストの死と復活のいのち、新しいいのちにあずかることなのです。
 この「新しいいのち」とはどんないのちでしょうか。それは神の子としてのいのちです。人間は本来だれでも、イエスが「アッバ、お父さん」と呼んだ神の子でした。でもそのことを見失ってしまうと、放蕩息子のようにさまよってしまうことになります。その放蕩息子である人間が、神に立ち返り、もう一度神の子として生き始める。これが洗礼の恵みである「新しいいのち」です。どこが新しいのでしょうか。それは神の愛とゆるしを知ったことです。神の愛とゆるしを知らずに生きるのと、神の愛とゆるしを知って、その神の愛とゆるしの中で生かされて生きるのでは全然違います。これが「新しいいのち」なのです。

 わたしたちキリスト者は自分がそういう神の子としての新しいいのちを与えられたことを知っています。わたしたちは神の子であり、神からかけがえのないいのちをいただいているということを知りました。しかし、それは決して「特権」ではありません。
 神から与えられた自分のいのちを大切にし、同時に、すべての人のいのちを神から愛されたかけがえのないいのちとして大切にする、という使命が与えられるのです。相手が仏教徒であろうと、ムスリム(イスラム教徒)であろうと、無神論者であろうと、どんな人も同じ神の子として、互いに兄弟姉妹として大切にして生きること。どの人種、国籍、民族であるか。金持ちか貧しい人か。どんな職業か。何を持っているか、何を持っていないか。そんなことと関係なく、すべての人を人として尊重すること。これがわたしたちに与えられている根本的な使命です。
 どんないのちも神が愛されるかけがえのないいのちだ。イエスがそのために十字架でご自分のいのちをささげてくださった、大切ないのちなのだ。そう見て、そのように人とかかわる者としてキリスト者は世に派遣されているのです。

 今日、洗礼と堅信、そして聖体の秘跡を受けられる方。そしてカトリック教会の交わりに入り、堅信と聖体の秘跡を受けられる方々。皆さんはこの使命を受けて、神から派遣される者になりました。
 これから長い歩みです。わたしたちがキリスト者として生きていくのは簡単ではありません。特に今の日本のように、キリスト者でない人がほとんどで、経済や競争ばかりが強調されている世界の中で、キリスト者としての使命を生きていくのは簡単ではありません。
 三つのことを大切にしてください。それは「聖書と祈りと共同体」です。
 聖書を読むこと、それはキリスト者にとって欠くことのできないことです。イエスに教えられ、導かれなければ、キリスト者として歩むこと、キリスト者として成長することはできません。どんな仕方でもいいですから、生涯、聖書を読み続けてください。
 祈ること、これなしにもキリスト者として生きることはできません。朝の賛美と夕べの感謝を習慣にしてください。朝はこの1日を与えてくださった神を賛美し、神と共に今日1日を生きることができるよう祈ります。夜には今日1日を振り返り、反省と感謝をします。もう一つ、もっとも身近なこととして食前・食後の感謝の祈りがあります。小さなことですが、そういう祈りをとおして日々の生活の中で神とのつながりを確認していくことはとても大切です。祈らないキリスト者というのもありえないのです。
 そして共同体。キリスト者は一人で信仰を生きていくことはできません。わたしたちの信仰があるのは、2000年の歴史の中で受け継がれた信仰の共同体があるからです。今も、全世界に広がるフランシスコ教皇を中心とした12億人もの人からなるカトリック教会の共同体に支えられています。そして具体的には身近な誰かが信仰の友として一緒に歩んでくれる、ということがとても大切です。代父母の方だけでなく、ここにいるわたしたちは皆、そういう信仰の友、信仰の仲間になりたいと思っています。

 ここに集まるわたしたちが、互いに励まし合い、支え合いながら、主イエスに従う道、信仰と愛の道を歩む共同体として成長していくことができるよう、心から祈り求めながら、洗礼と堅信と聖体の秘跡を祝いたいと思います。

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