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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活の主日 日中のミサ



カリタス南相馬のシスターKH作のイースターエッグです。
玉ねぎの皮からこの色を出しているそうです。

●復活の主日・日中のミサ
 聖書箇所:使徒言行録10・34a, 37-43/コロサイ3・1-4または一コリント5・6b-8/ヨハネ20・1-9
    2018.4.1カトリック原町教会
 ホミリア
 今日のミサの福音はヨハネ福音書20 章、イエスの死から三日目に弟子のペトロとヨハネがイエスの墓に行くと墓が空だった、という話を伝えています。何かとんでもないことが起こった、そう予感させる出来事ですが、だからイエスは復活したのだとまでは言えないかもしれません。弟子たちがイエスの復活を本当に知ったのは、イエスが姿を表し、弟子たちとともに食事をしたということがあったからです。今日の第一朗読には、「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが復活した後、ご一緒に食事をしたわたしたち」という言葉があります。わたしたちは死んだはずのイエスと出会った、確かに生きておられ、食事も一緒にした。これが弟子たちの体験でした。この体験に基づいて弟子たちはイエスの復活を証言したのです。
 復活して今も生きておられるイエスと一緒に食事をする、それは2000年前の弟子たちだけのものでしょうか。実は同じ経験をわたしたちも毎週ミサの中でしているのです。復活祭を迎えて、そのことを今日、改めて味わいたいと思います。

 復活したイエスと食事を共にしたという弟子たちの体験の中で、特に印象的なのはルカ24章のエマオの弟子たちの体験でしょう。
 イエスが亡くなって三日目、安息日が明けて、二人の弟子はエマオという村に向かって歩いて行きました。エルサレムは危険なので、早く逃げようとしたのでしょうか。自分たちがすべての希望をかけていたあのイエスは死んでしまったので、もうエルサレムにいてもしょうがない。他の弟子たちと一緒にいてもしょうがない。そう思って故郷に帰って畑でもするか、魚捕りでもするか、そんな感じでしょうか。
 そこへ見知らぬ旅人が現れて、彼らと一緒に歩き始めました。そして、「聖書全体についてご自分について書かれていることを説明され」ました。
 夕方になり、一緒に宿屋に入り、その人が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」というのです。
 この話はミサとよく似ています。ミサの前半でわたしたちは聖書の朗読を聞き、それを味わいます。ミサの後半でいつも主の食卓を囲みます。そこで、イエスが共にいてくださることを特別に深く味わうのです。

 ミサは「過越の宴」(典礼憲章47)と言われます。一方ではイエスの十字架の死の記念です。「渡されるからだ、流される血」イエスの受難、イエスの十字架の愛の記念。イエスは最後の晩さんでこの記念を行うよう、弟子たちに託しました。でももう一方でミサは復活の記念なのです。共に食事をすることをとおして、イエスが今もわたしたちの間に生きておられることを祝うのです。
 カトリック教会は、このミサを本当に大切にしてきました。このミサをとおして、エマオの弟子たちのように、わたしたちも共にいてくださるイエスに励まされ、闇から光へ、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、孤立から連帯へ、と変えられていく、そういう体験をしてきたからです。新たにカトリック信者となった3人の方、どうかミサのこの力を感じていってください。ミサに集まる人たちは不完全な罪びとの集団かもしれない。司祭の説教はつまらないかもしれない。でもミサは人間の力で行われるものではなく、復活したキリストの力で行われるのです。そこに必ずキリストはいてくださる、それがカトリックの信仰であり、カトリック教会の豊かさの源です。

 昨夜の復活徹夜祭で、洗礼式と堅信式が行われました。その中でお願いしたのは、キリスト者として歩んでいく中で「聖書と祈りと共同体」、この三つを大切にしてほしいということでした。この三つが凝縮されて一つになっているのがミサなのです。
 聖書は一人でも読めます。しかし、ミサの中での聖書朗読を特に大切だとされています。典礼で読まれる聖書の言葉をとおして、「神はその民に語りかけ、キリストは今も福音を告げている」、そういうものとして、わたしたちはミサの聖書朗読を受け取ります。
 ミサは最高の祈りだとも言われます。イエス・キリストがご自分のすべてを御父にささげた、そのことを思いながら、わたしたちの祈りをささげます。わたしたちの祈りが、キリストの祈りに結ばれて御父にささげられる、これ以上の祈りはありません。
 そしてミサは共同体がなければ成り立ちません。ここでもエマオの弟子たちの姿を思い出したらいいと思います。彼らは少なくとも二人連れでした。たった一人のところにイエスは現れるのではなく、失望し、打ちひしがれて、肩寄せ合っていたこの二人にイエスは近づき、ご自分を現してくださいました。こういう仲間がわたしたちにも必要です。そしてこの二人は、イエスに出会ったと気づいてから、「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まっていて、本当に主は復活して、シモンに現れた、と言っていた」(ルカ24・33-34)というのです。彼らはイエスの弟子たちのもっと大きな共同体に帰って行きました。この共同体、人間同士ですからうまく行くことばかりではありません。でもわたしたちに、この一つの食卓を囲む共同体、イエスを中心とした共同体が与えられていることを本当に感謝しながら、大切にしたいと思います。

 ミサができなくなることもありえます。先日、ここの隣の教会のC神父が脳腫瘍のため、ポーランドに緊急帰国しました。仙台教区福島県の教会としては、また大きな穴が開いたことになります。この先も司祭不足の厳しい状態が続くでしょう。でも日本の教会は江戸時代、200年以上、司祭なし・ミサなしで信仰を守ってきた歴史があります。確かに司祭はいないし、ミサもありませんでした。でも彼らには聖書のみことばと祈りと支え合う共同体がありました。ミサはもちろん大切ですが、「聖書と祈りと共同体」これがわたしたちの信仰を支えるのです。そのことも大切にしたいと思います。
 今日もさいわい、わたしたちは「過越の宴」であるミサの中で主の復活を祝うことができます。この復活の喜びのうちに、イエスと共に歩んでいきましょう。


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