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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第2主日のミサ



2月26日に浪江町でオープンした「サッポロラーメン たき」に行ってきました。
国道6号線、高瀬交差点の近くです。
昼どきだったので、ほぼ満席。塩ラーメンをいただきましたが、おいしかったです。

浪江町の海側が避難指示解除になって1年。
なかなか厳しい状況ですが、徐々に住民は戻ってき始めたようです。
お店もぼちぼち。

●復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録4・32-35/一ヨハネ5・1-6/ヨハネ20・19-31
    2018.4.8カトリック原町教会
 ホミリア
 昔ある小教区で働いていたときのこと。近くの大学に通っていた若い男性が教会に通ってくるようになりました。信者ではありませんでした。平日の夜の教会の聖書のクラスに熱心に通ってくるのですが、発言すれば、毒のあることばかり。わざと人に嫌われるようなことばかりを言うのです。彼は自分のことを「サタン」と呼んでいました。
 「俺はこんなに悪いやつだ。俺なんか誰にも好かれない。俺なんかどうせ救われない」とも言っていました。
 わたしも若かったので、彼にどう接していいのか、よく分かりませんでした。教会に来て、こんなに悪態をついているぐらいなら、わざわざ教会に来なくてもいいのではないか。でも口は悪いけれど、悪い人間には見えなくて、周りにいた青年たちも、まあなんとなく自然に彼を受け入れていました。

 1年ぐらいたった時でしょうか。ある日、突然、彼は自分のこれまでの人生を語り始めました。幼い頃から家庭で受けて来た苦しみ。家でも学校でも、ずっと自分の居場所がなく、どれほど苦しんで来たか。ずっと人間関係がうまく行かなかったことなどなど。
 それは閉ざされていた心が開かれた瞬間でした。
 そのときに分かったのです。彼が必死で心を閉ざしていたのは自分を守るためだったのだと。自分を開いて、人と関われば必ず自分が傷つくと知っていて、ヤマアラシかハリネズミのように棘を立てて、必死で自分を守っていたのだと。
 でも彼は心を開きました。それは1年の間に、教会で聖書を読み、他の青年たちと関わり、イエスの愛が彼の心に染みていったからです。ここなら大丈夫、自分の弱さを出しても受け入れられる、そう感じたからでしょう。閉ざされた心が開かれたとき。本当に感動しました。この瞬間のために自分は司祭になったのだと思うほどの感動でした。
 それからわたしは転勤して、彼とずっと音信不通になってしまいましたが、何年か後に、偶然、彼と再会しました。まったく違う教会のクリスマスの夜のミサでした。生活や仕事は必ずしもうまく行ってはいないようでした。でも以前よりも明るくなっていて、ずっと教会とつながり続けてくれているのがうれしかったです。

 今日の福音を読むとわたしはいつも彼のことを思い出します。
 イエスの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸を硬く閉ざしていました。先生が捕まり、十字架にかかって死んでしまった。外にはイエスの仲間を探して、捕まえようとしている人々がいるかもしれない。自分たちもどんな目にあうかわからない。恐怖でいっぱいなのです。「鍵をかけていた」それは弟子たちの心の状態をも表しているのでしょう。そこにイエスが来られます。彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言います。弟子たちの心は喜びと平和に満たされていきます。「あなたがたに平和があるように」。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。外は危険でいっぱいです。でも「イエスがともにいてくださる。だから何も恐れることはない」これがキリストの平和です。心がこのキリストの平和に満たされた時、弟子たちは鍵を内側から開いて、外に出て行くことができるようになったのです。
 心の扉は外からこじ開けることはできません。内側からしか開かない。そして本当に深い平和を心に感じなければ内側から扉をひらくことはできないのです。

 八日目にイエスに出会ったトマスも心を閉ざしていました。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」なぜトマスはその場にいなかったのでしょうか。トマスはヨハネ11章で、イエスが危険に満ちたユダヤに行くと弟子たちに話した時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と勇敢なことを言った弟子でした。しかし、彼は最後までイエスについて行くことはできなかったし、仲間の弟子たちもそうでした。そんな自分にも仲間にも失望し、こんな連中と一緒にいても意味がないと感じたのでしょうか。そしてイエスの死を知って絶望し、心を閉ざしていました。彼のもとに「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちの話が届きました。でも彼は信じることができない。心を閉ざし続けます。
 信じることはできないけれど、その後、こう書いてあります。
 「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」
 「もしかしたら本当かもしれない」そこに賭けたのですね。そしてイエスはそのトマスにも現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われます。トマスもこのキリストの平和に満たされて行くのです。そのとき、本当に心を開くことができました。

 「キリストがともにいてくださる。だから何も恐れることはない」このキリストの平和の体験は、個人の体験だけでなく、教会の体験でもあります。教会もほんとうに「キリストがともにいてくださる。だから何も恐れることがない」これが原体験ですし、そこからいつも出発します。
 司教はミサのはじめに「平和が皆さんとともに」と言うことになっています。普通の司祭は「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」とか言いますね。普通の司祭の言葉とちょっと違うんですが、そんな違いを強調する必要はないし、なんとなく最初は恥ずかしかったのです。これは復活したイエスのあいさつそのままです。「あなたがたに平和があるように」司教は特別に、イエスに代わってそう言うのです。みんながキリストからそう言われていると受け取ってくださるとありがたいです。わたしたちキリスト者のミサは復活したイエスがともにいてくださる。そこから始まります。
 ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」という言葉があります。これも今日の福音のイメージで受け取りたい。内側から鍵をかけて、必死で自分たちを守ろうとしているところに、イエスは来られ、「あなたがたに平和」とおっしゃり、「わたしはあなたがたを遣わす」とおっしゃってくださる。今日もこのキリストの平和に満たされて、キリストの平和を伝えるために、ここから出発していきたいと思います。


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