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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第3主日



飯舘村復興の3000本桜というところに行ってきました。
南相馬の桜はもう終わりですが、標高500メートルの飯舘村では今が満開でした。
個人の方が震災前から植え続け、今も植え続けているそうです。

3000本以上の桜は見事ですが、とてもカメラには収まりません!

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録3・13-15, 17-19/一ヨハネ2・1-5a/ルカ24・35-48
2018.4.15カトリック原町教会
 ホミリア
 イエスの弟子たちは、イエスが逮捕された時、皆、イエスを見捨てて逃げ去りました。そういう意味で、皆、弟子としては失格者でした。しかし、復活したイエスは再び、その弟子たちをご自分の弟子として受け入れ、派遣されたのです。この派遣の言葉は、マタイ福音書ではこういう言葉です。
 「28・19あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
 マルコ福音書の末尾に載せられているイエスの派遣は、
 「16・15全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
 それに対するルカ福音書の言葉が今日の箇所です。
 「24・46次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。」

 宣べ伝えられるのは「罪のゆるしを得させる悔い改め」だと言われます。悔い改めもゆるしも、ルカ福音書では単なる道徳的な意味の言葉ではありません。「悔い改め」とは「主に立ち返る」ことです。「ゆるし」と訳されている言葉の元のギリシア語は「アフェシス」です。この言葉は、ルカ4章、ナザレの会堂でのイエスの宣教開始の場面にも出てきます。そこでイエスはイザヤ預言書(イザヤ61・1-2aなど)を朗読しました。
 4・18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスはこの箇所を読んでから、こう宣言されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。
 ここにイエスの活動とメッセージのエッセンスがあります。この箇所で「解放」、「自由にし」と訳されている言葉が「アフェシス」なのです。苦しむすべての人に福音が告げられる。神と人との間を隔てているものが取り払われ、人と人との間を隔てている暴力や不正が取り除かれるというイメージでしょう。

 ルカの派遣命令でもう一つ大切なのは、「宣べ伝える」は人間がすることではない、という点です。「宣べ伝えられる」の主語は、使徒たちではありません。使徒たちは、「これらのことの証人となる」と言われていて、これをなさるのは神ご自身なのです。
 証人とは何でしょう? 傍観者的に見ていて、ただ証言する人の意味でしょうか? そうではない。神のなさることに信頼しながら、そこに協力していくことが証人となること。

 一番良いイメージは、「わたしをお使いください」という歌ではないか、と思いました。マザーテレサの祈りと言われていますが、元の英語版はうまく探せませんでした。日本語ではこういう歌詞になっています。
 「主よ 今日1日 貧しい人や 病んでいる人々を助けるために  
 わたしの手をお望みでしたら 今日わたしのこの手をお使い下さい
 主よ 今日1日 友を求める小さな人々を訪れるために
 わたしの足をお望みでしたら 今日わたしのこの足をお使い下さい
 主よ 今日1日 優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
 わたしの声をお望みでしたら 今日わたしのこの声をお使い下さい
 主よ 今日1日 人というだけで どんな人々も 愛するために
 わたしの心をお望みでしたら 今日わたしのこの心をお使い下さい」

 「わたしが助けることができますように」というのではないのです。「主が貧しい人を助けてくださる」「主が小さな人々を訪問してくださる」「主が愛の言葉に飢えている人と語り合ってくださる」「主がすべての人を愛してくださる」あくまでも主体は「主ご自身」なのです。そう信頼しながら、わたしの手、わたしの足、わたしの声、わたしの心はその主のみわざのための道具として使ってください、と祈ります。

 昨日、福島市の松木町教会で、仮設住宅を出た浪江町の人たちの集まりがありました。そこで90歳の女性が民謡の替え歌を披露してくださいました。自分で詩を作って、暗記して歌ってくれたのです。その詩の中で、仮設住宅のあった宮代という場所を「第二のふるさと」と呼んでいました。原発事故から6年間一緒に過ごした仮設住宅です。もうほとんどの人はそこを出て、新しい家に移っています。その高齢女性も今は南相馬市に住んでいます。ずっと住んでいた仮設の建物もそろそろ取り壊されるという話です。でもその人は仮設を「第二のふるさと」というのです。逆に言えば、仮設を出た今、どれほど孤独を感じているか、ということだと思いました。
 その人々のために何ができるか、なかなか難しい課題です。でも、わたしたちに何ができるか、何をすべきか、ではなく、「主は何をなさろうとしているか、そして、そこにわたしはどんな協力ができるか」そう考えてみるのも大切ではないかと思いました。これは別にカリタス南相馬のスタッフやボランティアだけの話ではありません。
 「神と人、人と人とを隔てているものからの解放」その神のみわざ、復活したキリストのみわざを信じながら、そのために少しでも協力できるものとなる恵みを祈り求めたいと思います。


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