毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第5主日





南相馬農地再生協議会主催の「南相馬菜の花花見会2018春」というイベントに参加してきました。
塩害に強い菜の花、そこからとった菜種油にはセシウムが入りません(セシウムは水溶性のため)。
そこで南相馬市原町区の多くの畑で菜の花が栽培されています。
今回の目玉は、新たに作られた「搾油所」のお披露目。
(下の写真、向こう側が搾油機で、こちら側が絞った油を漉しているところです)
これで菜の花の栽培から、菜種油の製造、瓶詰めまで、すべて南相馬で行うことができるようになりました。

●復活節第5主日
 聖書箇所:使徒言行録9・26-31/一ヨハネ3・18-24/ヨハネ15・1-8
    カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の福音を読んでいるうちに、昔、読んだ八木重吉の詩を思い出しました。その詩に出会ったのは、神学生のころのことだったと思います。
 「きりすと われにありとおもうはやすいが
 われみずから きりすとにありと ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ
 きりすとが わたしをだいてくれる わたしのあしもとに わたしが ある」
 八木重吉は1898年に東京・町田で生まれ、1927年、結核のため、わずか29歳で世を去った詩人です。短い年月にたくさんの詩を残しました。その多くはとても短い詩です。キリスト者としての信仰を、詩のかたちで表現した人として、戦後になってからよく知られるようになりました。彼は英語教師として千葉県の東葛飾中学で教鞭を取りました。この学校は戦後、東葛飾高等学校となりましたが、実はわたしが卒業した高校でもあります。高校時代は八木重吉のことを知りませんでしたが、わたしの卒業後、八木重吉の詩碑が学校に建ちました。そんな縁もあって、彼の詩を身近に感じるようになりました。

 ただこの詩を若いころに読んだ時、実はピンと来なかったのです。
 「きりすと われにありとおもうはやすい」そうでしょうか?
 「われみずから きりすとにありと ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ」そうなのでしょうか?
 そのころのわたしは逆じゃないかと思ったのです。わたしはキリストを信じている、と思えば、「われキリストにあり」と思うのは当たり前ではないか、逆に、キリストを信じていると言いながら、なかなか「キリストわれにあり」とは思えないこともあるのではないか。そんな風に考えて、とてもとても八木重吉の心境にはたどり着けないでいました。

 ではなぜ、今日の福音を読んだときにこの詩を思い出したかです。
 「ぶどうの枝がぶどうの木につながっている」
 そう訳されていますが、これはもともとぶどうの枝とぶどうの幹がつながっているのではなく、枝はぶどうの木全体の中にとどまっている、という表現になっています。
 そして「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」という箇所は「わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたのうちにとどまる」というのが直訳です。ぶどうの枝がぶどうの木全体にとどまる、というのは分かりやすいですが、ぶどうの木全体がぶどうの枝にとどまる、というイメージは湧きにくいですね。DNAとかで考えれば、ぶどうの枝の先にまでぶどうのDNAがあると言えるかもしれませんが、そんな話なのでしょうか。いやむしろ、わたしたちの中に愛そのものであるイエスがとどまる、そして、わたしたちが愛そのものであるイエスにとどまる、というイメージなのでしょうか。「わたしはあなたがたのうちにいる」それはわたしたちの中にキリストの愛が確かにあるということ。「あなたがたがわたしのうちにいる」とは、キリストの愛の中にわたしたちが生きるものとなる、ということ。

 だとしたら、「わたしたちがキリストのうちにいる」、というのは、ただ単にイエスを神の子・救い主だと頭で信じているとか、洗礼を受けているとか、教会に通っているとかではなく、やはり本当にわたしたちがキリストの愛に結ばれて生きるようになる、ということではないか。八木重吉が「われみずから きりすとにありと ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ」と言ったのはそのことではないか。
 この詩の最後の言葉も分かりにくいですが、「きりすとが わたしをだいてくれる わたしのあしもとに わたしが ある」とあります。
 「きりすとが わたしをだいてくれる」これは、キリストはわたしを確かにいとおしんでくださる、愛してくださっている、という意味でしょう。「わたしのあしもとに わたしが ある」とは何でしょう? わたしはこれだけのもの、背伸びしても、上べを取り繕っても、わたしはわたしでしかない。どうしようもなく足りない自分がそこにはいます。でもだからこそ、「ほのかにてもかんずる」という言葉がとても素敵なのです。全然、キリストの愛に近づいていない自分を感じながら、でも「ほのかにても」そうなれたらいい。

 こんなふうに感じるのは、自分が今、浜通りにいるからだと思います。
 相馬、鹿島、原町、小高、浪江。この浜通りの原発の北側の地域に住んでいて、さまざまな人と出会います。ほとんどの人は言わば「キリストを知らない人」です。その中に本当に素晴らしい仏教者もいらっしゃいますし、無宗教のような方もいらっしゃいます。ここで、わたしたちはキリストを信じつつ、震災と原発事故の影響を受けているすべての人と一緒に歩ませていただこうとしています。だからこそ、「キリストにつながっているとは?」「キリストのうちにいるとは?」と本当に日々、問いかけながら、歩まなければならないのです。それは震災前からこの地域に住んでいるキリスト者も、震災後、支援のためにここにきたキリスト者も同じでしょう。
 この地でわたしたちが「われみずから きりすとにあり」と少しでも感じる者となることができますように、ミサをとおして祈りましょう。


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