毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の昇天



南相馬市は2006年に鹿島町、原町市、小高町が合併してできた市です。
一番北の鹿島区は福島第一原発から30km圏外にあり、たくさんの仮設住宅が建っていました。
仮設に住んでいた人の大半は、新しい住居に移り、今はほとんどの仮設住宅が取り壊されています。
この鹿島区は「万葉の里」と言われています。桜平山(さくらだやま)に歌碑があります。
「みちのくの真野の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆといふものを」(笠女郎・万葉集巻三)
今も真野川、真野漁港という名が残っていますが、1000年以上前に、奈良の都まで知られていた地名だったのですね。
鹿島区もいろいろな魅力のある地域なのです。

さて、これとはぜんぜん関係ありませんが、主の昇天のホミリアです。

●主の昇天
 聖書箇所:使徒言行録1・1-11/エフェソ4・1-13/マルコ16・15-20
       2018.5.13原町カトリック教会にて
 ホミリア
 主の昇天の祝日です。この祝日は、イエスの復活ということが、ただ単にイエスが地上の生に舞い戻ってきたのではなく、神のもとに上げられ、神とともに永遠に生きる方となった、という面をよく表しています。同時にわたしたちも皆、最終的にこのイエスの昇天にあずかるものとなる、ということも大切です。今日の集会祈願には、「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています」とあるようにわたしたちも皆、最終的に神のもとに行く。その希望を新たにする日でもあります。

 でも今日、わたしたちはただ天を見上げていればいいのではありません。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」と第一朗読で弟子たちは天使から言われます。弟子たちは地に足をつけて、地上で生きていかなければならないのです。弟子たちに与えられた使命は、今日の使徒言行録によれば、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ということです。「イエスの証人となる」とはわたしたちにとってどういうことでしょうか。
 福音はマルコ福音書の結びの箇所。マルコ福音書に後から書き加えられた部分かもしれませんが、ここにイエスの復活後の出来事がまとめられています。その中で、やはり大切なのは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」というイエスの言葉です。この言葉に地上に残された弟子たちのミッション(使命)がはっきりと示されています。「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」それはわたしたちにとってどういうことでしょうか。

 そう考えたとき、古代のローマの教会のラウレンチオという殉教者のことを思い出しました。ラウレンチオは古代からとても人気のあった聖人で、ローマには古くから彼を記念する大聖堂があり、教会の長い歴史の中でずっと崇敬されてきました。
 ラウレンチオは3世紀の人、ローマの教会で働いた助祭たちの中の一人でした。そのときのローマの司教はシストという人です。ローマの司教は今で言えば教皇ですが、そのころはまだ教皇とは呼ばれていませんでした。大きな町であるローマの司教の手足となって働く助祭たちが7人いて、ラウレンチオはその筆頭だったと伝えられています。厳しい迫害時代のことです。シスト司教と他の助祭たちは捕らえられて殉教しました。しかし、ラウレンチオだけには何日かの猶予が与えられました。それは教会財産を処分して、ローマの役人に差し出すための猶予期間でした。ラウレンチオは教会に戻って教会財産を処分しましたが、それをローマ帝国に差し出すのではなく、すべて貧しい人に分けてしまいました。
 ラウレンチオが役人のもとに出頭する日、おおぜいの貧しい人々が彼を慕ってついて行きました。役人はラウレンチオに尋ねました。「教会の財産はどこにあるのだ?」それに対して、ラウレンチオは彼についてきた多くの貧しい人々を指して、「この人々が教会の財産です」と語りました。その意味が分からなかった役人は怒って、ラウレンチオを火あぶりにして殺してしまいました。
 ラウレンチオがローマの殉教者たちの中でも特に慕われるようになったのは、この彼の最後の姿が人々の心を打ったからでしょう。

 神はどんな人をも例外なく、ご自分がお造りになったものとして、ご自分の子として、宝物のように大切にしてくださる。それが神の国のメッセージです。それはいくら聖書や他の書物に書いてあっても伝わらない。大声で叫んでも、きれいな言葉で話しても伝わらない。それはラウレンチオのような生き方をとおしてしか伝わらないメッセージです。
 本当に一人一人の人間がかけがえのない存在。
 イエスもそのメッセージを言葉だけでなく、生き方をとおして示されました。労働を禁じられた安息日であっても、目の前の苦しむ人に手を差し伸べ、その人の苦しみをいやしました。罪びとというレッテルを貼られて社会から排除されている人々を招き、その人々と一緒に食事をしました。汚れていると言われていた病人に近づき、手を触れて立ち上がらせました。このすべてのことをとおしてわたしたちが受け取ったのが、イエス・キリストの福音なのです。神はどんな人も例外なく、大切なご自分の子として見ていてくださる。その人間を救うために神は今まさに近づいてきてくださっている。これが神の国の福音です。

 一人一人の人間の尊厳が認められ、例外なくすべての人が尊重される。そんなことは当たり前で、今更「福音」と言うほどのこともないでしょうか。いや、やはりこれは、わたしたち人類にとって永遠の課題なのではないでしょうか。「自分たちさえ良ければいい。他の人たちはどうなってもかまわない」そういう誘惑はいつもあるからです。
 お金・便利さ・国の発展。そのためにはある程度の人は犠牲になっても仕方ない。景気がよくなり、経済が発展することが一番良いことで、そのためには格差があるのもあたりまえ、貧しい人がいるのはあたりまえ。全体の利益のためには少数者(マイノリティー)は切り捨てられても仕方ない。国の安全保障のためには、個人の権利は制限されて仕方ない。オリンピックの成功のために、弱い人のことは後回しになってもやむをえない。
 こういうことのすべては政治・経済・社会の問題でしょうか。わたしたちの信仰の根本、福音の本質に関わる問題なのではないでしょうか。

 来週は聖霊降臨の主日です。聖霊は「あかしの力を注ぐ方」。わたしたちが聖霊をいただいて、福音を生き、生き方をもって福音を告げる者となれますよう、心から祈りましょう。


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