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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

三位一体の主日



聖霊降臨の主日には、仙台教区元寺小路カテドラルで合同堅信式がありましたが、仙台まで行けなかった方のために、三位一体の主日に原町教会で堅信式を行いました。
お祝い会のメニューが心配で、早起きして、パエリアを作ってしまいました。
なぜかその写真しかありません。あしからず。
(使っている米はもちろん福島県産「天のつぶ」です)

●三位一体の主日・堅信式ミサ
 聖書箇所:申命記4・32-34, 39-40/ローマ8・14-17/マタイ28・16-20
       2018/5/27カトリック原町教会
 ホミリア
 「ケンシン」と聞いて、あるプロテスタントの方は「カトリックでは、洗礼を受けた後に、ケンシンするんですか」と驚かれました。その方の言う「ケンシン」は「献身」(身をささげる)のことで、その方は、洗礼を受ける前に自分を神にささげる「献身」のチャンスがあったと言っておられました。カトリックでいう「ケンシン」は「信仰を固める、堅固にする」と書く堅信ですね。
 もともと堅信の秘跡は、洗礼の秘跡と一つの秘跡だったとも言えます。人がキリスト者になるしるしが洗礼です。大人がイエス・キリストを知り、「キリストを信じます」と言って受けるのがはじめの時代の洗礼でした。そこにはイエスの弟子として、教会の使命に参加するという面が当然のようにありました。しかし、キリスト者が多くなって行くと、子どもたちもできるだけ早くからキリスト者として、教会のメンバーとして受け入れようということで、幼児洗礼の習慣が広まりました。そこで洗礼は赤ちゃんのときに受け、大きくなってから、その信仰を自分のものとして受け止め直す機会として、堅信の秘跡を受けるということが行われるようになっていきました。現代のカトリック教会では、大人の洗礼の場合、洗礼と同時に堅信の秘跡を受けるのが原則になっています。ただし、大人で洗礼を受けた人が信仰生活を歩み始めてから、しばらくして、その信仰をもっと確かなものとして固めるために、堅信を切り離して行うということもあります。この教会ではそうしてきたようです。

 そこから考えれば、堅信の秘跡のテーマはキリストの弟子として生きるということになります。ただ単に、神を知り、キリストを信じ、神の子どもとして歩む、というよりも、もっと積極的にイエスの弟子として、イエスに従い、イエスから派遣された者として生きていくということを堅信の秘跡は表しています。
 先週の聖霊降臨の主日のテーマはまさにそれでした。
 福音書によれば、イエスの弟子たちはイエスが逮捕された時、皆、イエスを見捨てて逃げてしまった弱い人々でした。その弟子たちは、死に打ち勝ち、新たないのちを生きておられるイエスに再会し、喜びに満たされ、立ち上がりました。その弟子たちが、イエスの弟子としてもう一度新たに歩み始めたのがこの聖霊降臨の日のことでした。その日から、彼らは「神の偉大なわざ」を語り始めたのです。その日からずっと彼らは聖霊という神の力に励まされ、力づけられて、イエスの弟子として歩んでいくことになりました。
 今日の福音はマタイ福音書の結びの箇所です。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」この力強い約束でマタイ福音書は結ばれています。これもほとんど同じ体験を表しています。ガリラヤの山で、復活したイエスに出会い、そのイエスから派遣されるのですが、弱い人間である弟子たちを励ますのが、「わたしはあなたがたと共にいる」という約束なのです。聖霊がわたしたちの中にある。イエスが一緒にいてくれる。聖霊が強めてくれる。だからイエスの弟子として歩んでいける。これが堅信の秘跡の表していることです。

 イエスの弟子として生きる、というのは今のわたしたちにとってどういうことでしょうか。弟子とは、イエスに従い、イエスにならって生きる人のこと。あのイエスが、生涯をとおして父である神に信頼し、最後の最後まで出会ったすべての人を愛したように、わたしたちも神に対する信頼と人に対する愛をもって生きる。簡単に言えばそれだけです。
 わたしたちは「自己責任」ということが強調される世界に生きています。自己責任というのも確かに必要な面があります。自分の努力、自分の責任で、きちんと生きて行かなければならない。たしかにそれも大切なことです。
 でも自己責任ばかりが強調されると問題もあります。自分の努力でうまく行っていればいいのですが、うまくいかないこともあります。病気になったり、仕事がうまく行かなかったり、人間関係で傷ついたり、たいへんなこともいろいろあります。そういうときに、自分はダメだと落ち込んでしまう。自己責任がすべてではないのです。神様はどんな時も必ずわたしたちを守り、必ず良い方向に私たちを導いてくださると信じる。だからどうにもならない部分は神にゆだねて、自分はダメだと落ち込まないで、精一杯生きていくことができる。これはイエスの弟子の生き方の特徴だと思います。
 自己責任が強調されると、うまく行っていない人を見たとき、「あの人はダメな人だ」と感じてしまうこともあります。いろいろ厳しい問題を抱えている人に、それはあなたの責任だ、あなたに問題があるからだ、と言ってしまうのは、酷です。他人をダメだと決めつけない。これもとても大切なこと。
 「自分をダメだと決めつけない、他人をダメだと決めつけない」単純すぎるかもしれませんが、神に信頼し、人を大切にして生きる、イエスの弟子として忘れてはいけないことだと思います。

 堅信の秘跡を受ける人にいつもお願いしていることがあります。それは「祈りと聖書と共同体」この三つを大切にしてください、ということです。
 祈り。一日を神への賛美で始め、一日を神への感謝で終わる。そうすることによって、わたしたちの毎日は、神がともにいてくださる生活になります。
 聖書。イエスの姿を見つめる。2000年前に生きたイエスの言動を見つめ、イエスの声に耳を澄ます。それがわたしたちに対する確かな導きになります。
 そして共同体、平たく言えば信仰の仲間、信仰の友。わたしたちはたった一人でイエスの弟子としての道を歩んでいくのではない、誰かと一緒に支え合い、励まし合いながら、信仰の道を歩んでいく。
 「祈りと聖書と信仰の仲間」この三つに支えられながら、今日堅信の秘跡を受ける方々が、イエスの弟子として生涯歩み続けることができますよう、心を合わせて祈りましょう。



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