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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

キリストの聖体



さゆり幼稚園では、震災前に行なっていたイモ掘りを昨年まではすることができませんでした。
この地域で子どもが土に触れたり、畑で採れたものを食べるということには不安があったからです。

今年、8年ぶりにイモ掘りを行なうことになり、先週、園児たちも参加して、サツマイモの苗を植えました。

これがその畑、われらがカリタス農園です!

●キリストの聖体の祭日
 聖書箇所:出エジプト24・3-8/ヘブライ9・11-15/マルコ14・12-16, 22-26
       2018.6.3カトリック原町教会
 ホミリア
 「キリストの聖体」と言っていますが、この祝日の本当の名前は「キリストの最も聖なるからだと血の祭日Sollemnitas Sanctissimi Corporis et Sanguinis Christi」です。「血」というのはわたしたち日本人には馴染みにくいので、ただ「聖体」というようになってしまったのでしょうか。
 でも「血」は大切。今日のミサの3つの朗読すべてに出てきます。
 第一朗読はシナイ山で神とイスラエルの民の間に契約が結ばれる場面。エジプトの奴隷状態から神によって救われた民に、救われた民としての生き方を示す律法が与えられ、それを守ることによって、神との特別親しい関係を生きるようになる。これがシナイ契約と言われるものです。雄牛の血をとって、半分を神のシンボルである祭壇に振りかけ、残りの半分を民に振りかけます。こうすることによって契約が結ばれました。牧畜民族の中で契約は「血」と結びついていました(日本にも昔、「血判、血判状」というのがありましたが)。「この契約を破ったら、血ぃ見るで」みたいな感じでしょうか、「血の報復」というイメージがありますが、とにかく、その契約が命がけのものであることを表していたのです。これがもともとの「契約の血」のイメージだったのでしょう。
 第二朗読はヘブライ人への手紙。キリストは「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」決定的な救いは、イエスの十字架の血によって成し遂げられたというのです。
 そして福音はマルコ福音書で、最後の晩さんの席での聖体の制定を伝える箇所です。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」わたしたちが毎回ミサの中で聞いている言葉です。

 今日は特に第二朗読に注目したいと思います。こういう言葉があります。
 「キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブライ9・14)
 ちょっと分かりにくいです。「良心」と訳された言葉は確かに後に「良心」の意味にもなりましたが、元々は「意識、自覚」という意味の言葉です。「心の働き」と言ってもいいと思います。イエスの血はわたしたちの心の働きを清める、というのです。あのイエスの十字架の愛が迫ってきたときに、わたしたちの心が変えられていくのです。
 ヘブライ人への手紙にはこういう箇所もあります。
 「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、『たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない』という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、『わたしはおびえ、震えている』と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(12・18-24)
 キリストによってもたらされたものは、旧約よりもはるかに素晴らしいものだというのですね。ここで「アベルの血」というのは、創世記4章で兄弟カインに殺されたアベルのことです。神は弟を殺したカインにこう言いました。
 「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(10-12節)
 アベルの血は、恨みと呪いの血です。そして、なぜキリストの血がアベルの血にまさるかと言えば、それは「愛の血」だからです。
 同じように、キリストの血は、シナイ山の契約締結の儀式で使われた雄牛の血にもまさるのです。古い契約の血は、それを破れば、恐ろしい血の報復が待っているということを表す血でした。でも新しい契約の血は、キリストがすべての人を愛して、その人々の救いのために流された愛の血なのです。

 わたしたちは毎回ミサをとおして、聖体のパンとぶどう酒をとおして、このキリストの血に、キリストの愛に触れているのです。そのキリストの愛がわたしたちの心を清めるのです。「これはあなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる、新しい永遠の契約の血である」いつもミサの中で司祭はそう言います。今日のマルコ福音の日本語訳で言えば、「わたしの血、契約の血」です。このキリストの血がわたしたちの心に迫って来ているのです。
 毎週のことで、いつの間にか、ミサも聖体拝領もマンネリになってしまっているかもしれません。でも、もう一度本気で受け取り直しましょう。ミサの中で、イエスの血に、イエスの愛にじかに触れさせていただきたいのです。そのとき、わたしたちの心は変えられていきます。
 長い道のりです。キリストの愛から程遠いわたしたちがキリストの愛に近づいていくのですから。でも、あきらめないで歩んでいきましょう。一生かかってもいいんです。少しでもキリストの愛に近づくことができれば。
 そのための糧が聖体の秘跡です。


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