FC2ブログ

毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第10主日



南相馬市小高区、常磐線桃内駅の近くの水田です。
福島第一原発から20km圏内のこの地域は、避難指示が解除されてから2年が経ち、田んぼも少しずつ復活してきています。

6月16日(土)14:00-15:30船橋学習センター・ガリラヤで、
「福島の今、日本の未来〜原発事故から何を学び、どう生きるか〜」という講演をさせてもらいます。
来てくださると嬉しいのですが、申し込みが必要なようです。
こちらからどうぞ。

●年間第10主日
 聖書箇所:創世記3・9-15/二コリント4・13〜5・1/マルコ3・20-35
     2018/6/10カトリック原町教会にて
 ホミリア
 第一朗読は、創世記3章の物語からとられています。最初の人間が神に背き、罪を犯してしまったという話です。エデンの園で、人は地を耕し、作物を育て、神は人に豊かな食べ物を与えていました。人とその妻は何不自由なく暮らしていました。アバムとエバと呼ばれるようになる最初の人間、この二人の関係も良いものでした。神と人、人と人、人と自然、すべて調和の取れた理想的な状態がそこにありました。
 そこに誘惑が忍び寄ります。「蛇」は誘惑するもののシンボルです。神がこれだけは食べてはいけない、と言っていた食べ物を食べさせようとするのです。それを食べれば、神のようにすべてを知ることができるようになる。そう言って誘惑します。人はその誘惑に負けてしまうのです。その後の場面が今日の第一朗読の箇所です。

 「あなたの足音が聞こえた」とアダムは言います。神さまがエデンの園を散歩している、という、素朴な物語のような描き方です。人はその神の足音を聞いて、恐ろしくなり、木の陰に隠れるのです。それまで人は神を恐ろしいと思っていなかった。神の前に裸で立つことができた。しかし、神に背き、神から離れてしまったとき、神の前に自分のありのままを晒すことができず、我が身を隠そうとするのです。罪を犯した人間の悲しい姿がそこにあります。「食べたのか」そう問われたアダムは「はい、食べました」と言えばいいのに、「女が与えたので、食べました」と言います。責任逃れのよう? さらにその女について、「あなたがわたしと共にいるようにしてくれた女」と言います。そもそも神様、あんたが悪い、あんたがあんな女をわたしに押し付けたから、わたしは食べちゃったんです。どこまでも責任逃れしているように聞こえます。これも罪を犯した人間のあわれな姿です。
 こうして、神と人、人と人との関係がおかしくなる。本来、良い関係だったはずなのに、人間がそれをおかしくしてしまった。このおかしくしてしまった関係をどう取り戻すのか、これが聖書全体のテーマだと言ったら良いと思います。

 今日の第一朗読の後半は、人間を誘惑した蛇に対する裁きの言葉です。蛇は人間を誘惑した罰として呪われた存在になるというのですが、それに続いて、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」と言われます。謎めいた言葉ですが、これを「原始福音」と言うことがあります。最終的にいつか再び、蛇(=悪の力)と人間との間に決定的な戦いが起こる、ということを予言している言葉だと考えられるからです。
 イエスは神の国を告げ知らせる活動を始めるにあたって、40日間、荒れ野で誘惑と戦い、それに打ち勝った、と福音書に伝えられています。もっと大切なのは、十字架上での誘惑です。「神の子なら、十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」その誘惑をイエスは退けけられました。イエスが悪に、誘惑に打ち勝った道はこれでした。イエスこそがすべての誘惑に打ち勝ち、悪に対して決定的は勝利を示された方、新約聖書はそう証言します。

 でも一方ではそのイエスを見て、イエスが悪霊に取り憑かれている、という見方があった、というのが今日の福音の箇所です。どういうことでしょうか。
 当時、病気は悪霊の働きという見方が強くありました。特に精神障害のように、人と人のコミュニケーションがとれなくなったような状態を見たときに、人間の力を超えた悪の力(悪霊)が働いていると考えられていました。イエスはそういう人々をいやしたのですから、悪に打ち勝ったと考えられて当然でした。
 でもそうとは限らなかった、イエスを受け入れなかった人々がいました。それは「エルサレムから来た律法学者」と今日の福音でいわれるような、当時の社会的・宗教的なエリートたちでした。当時のユダヤ社会には、律法による人のランク付けがありました。人として優れているのは、律法を学び、律法を守っている人。そこに入らない人たち、女性、子ども、外国人は神から程遠いと見なされていました。病人や障害者、さらに貧しい人は、何らかの罪の結果そういう不幸に見舞われていると考えられていたので、ほとんど罪びと扱いされていました。あるいは、そのような病気や貧困の状態では律法を学ぶことも、守ることもできないからどうせ罪びとだ、という見方もありました。それが当時の当たり前の見方でした。その上にユダヤ社会の秩序は成り立っていたのです。

 イエスはその秩序を壊してしまいました。なぜなら父である神はどんな人も例外なく、ご自分の子として大切にしてくださっている、それがイエスの確信だったからです。
 イエスのまわりに集まってきた人々についてマルコ福音書はこう言っています。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せてきた」(マルコ3・10)イエスの周りにはそういう人々が集まっていました。病気の人、貧しい人、職業的に罪びとのレッテルを貼られていた人、社会的に低く見られていた女性や子どもたち。今日の福音はそういう中でのイエスの言葉です。イエスは「周りに座っている人々を見回して言われた」とあります。
 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
 「神の御心を行う人」と言いますが、その人々がしたことは、律法にかなう立派な行いではありません。イエスの呼びかけに応え、父である神のいつくしみとゆるしに信頼し、イエスの周りに集まってきただけです。その人々に向かって、「あなたがたはわたしの兄弟姉妹」と言ってくださいました。イエスは今日もここに集まるわたしたちにそう言ってくださる。フィリピンから来た人、タイから来た人、中国から来た人、日本のあちこちから来た人、男も女も、大人も子どもも。その一人一人に向かって、イエスは「あなたはわたしの兄弟、あなたはわたしの姉妹」と言ってくださる。その喜びを、そのありがたさを深く感じながら、ミサを祝いたい!!!




PageTop