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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第13主日



暑いです。
海を見に行きましたが、南相馬の海水浴場は今年も遊泳禁止のままです(写真は北泉海岸)。
お隣の相馬市にある原釜尾浜海水浴場は、8年ぶりに再開され、7月21日に海開きが行われるそうです。

●年間第13主日
 聖書箇所:知恵1・13-15、2・23-24/二コリント8・7, 9, 13-15/マルコ5・21-43
2018.7.1カトリック原町教会にて
 ホミリア
 わたしたちは、神は永遠の方であると信じています。「永遠」とは何か、説明するのは難しいのですが、時間を過去と未来に延々と延長していくと永遠になる、というものでもないのです。むしろわたしたちが経験している時間を超えた世界、それが永遠だと考えたらいいと思います。時間を超えているので、あらゆる時代、あらゆる一瞬一瞬が永遠と触れ合っています。でも永遠は時間の中にないので、ふだんの感覚では捉えにくいのです。
 わたしたしは時間の中に生きています。目に見えるものの世界と言ってもいいでしょう。それは過ぎゆくものの世界です。あるとき生じ、あるとき消える。あるとき生まれ、あるとき死んでいく。それが当たり前の世界です。すべてのものは一時的なもので、すべては過ぎ去るもの、目に見えるものはすべて過ぎ去ります。
 そういう世界の中で、永遠の神を信じるということは、決して滅びないものがあると信じることです。肉体の死についても、それがすべての終わりではない、と信じることです。

 今日の福音でヤイロに求められるのはそういう信仰です。
 今日の箇所は会堂長ヤイロの娘の話の間に、出血の止まらない女性のいやしの話が入り込んでいるような形になっています。ヤイロは病気の娘を助けてほしいとイエスに頼み、イエスはヤイロの家に向かいました。もし、イエスが真っ直ぐにヤイロの家に向かっていたら、少女が死ぬ前に到着したかもしれないのに、イエスが出血の女性と関わっていて、時間を取られたために、ヤイロの娘は死んでしまったとう感じもあります。ヤイロにしてみれば、あるいは、そこにいた人々の常識からすれば、「生きているうちならば、娘を助けてもらえる、しかし、死んでしまったらもう手遅れだ」と考えるのが当然だったかもしれません。そのヤイロに向かってイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃるのです。

 肉体的な死、それは決してすべての終わりではない、という信仰をイエスは求めたと言ってもいいではないでしょうか。話の展開としては、この後、イエスは少女を生き返らせることになるのですが、とにかく「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」というあきらめの世界を超えた神への信頼の世界をイエスは指し示すのです。
 死ということを前にしてわたしたちも皆、この信仰を求められます。
 死は決してすべての終わりではない。肉体の死を超えて、何かが残る。決して滅びないものがある。そこに目を向けるように、促されるのです。そして何が本当に滅びないものかを問いかけます。わたしたちと神との絆は決して滅びない。それは肉体の死を超えて、むしろ完成していく。これが新約聖書のメッセージ、キリスト教の根本的な確信です。人と人との愛の絆も決して滅びない。これも聖書の大切なメッセージです。いつも思い出したい言葉があります。コリントの信徒への第一の手紙13章です。

 「8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 「愛は決して滅びない」というのがパウロの確信です。すべてのものは消え去る、過ぎ去る。でも愛は滅びない。目に見えるものはすべて部分的なものですが、愛は完全なもの。完全なものが来た時、部分的なものは滅びる。「幼子」はここでは「無知な者」という意味です。幼子は知恵がなく、本当のことを知らない。成人して知恵と知識が身につき、幼子のころと違い、物事がはっきりとわかるようになった、そういうたとえです。「鏡」は古代の鏡。金属の表面を磨いたもので、ものをぼんやりとしか映し出さない。今は実はぼんやりとしか分かっていない。でも決定的に神と顔と顔を合わせて出会う時が来る。そのときははっきり見ることができる。「はっきり知られているように」わたしは神にはっきり知られているのですね。そのように「はっきり知る」。」それは神を知る、とも言えるし、自分自身をはっきり知るとも言えます。自分が生きてきた中で、何が本当に価値のあるものか、何が決して滅びないものなのか。それがはっきりわかるというのです。滅びないものは「信仰、希望、愛」でも突き詰めて言えば「愛」。最終的にそのことが明らかになる。そう信じて、今を生きようという呼びかけです。今、本当に信仰、希望、愛をもって生きようという呼びかけ。

 わたしたちは自分の死ということをどれくらい身近なこととして考えているでしょうか。わたしは東日本大震災の年に、たった一人の兄をすい臓がんでなくしました。兄は58才でした。その妻、わたしの兄嫁も少し後に、59才で劇症肝炎のためなくなっています。それ以来、自分の死というものが遠いものではなくなってきました。そして、そう感じたときに思うのです。すべては過ぎ去る、でも過ぎ去らないものは何か、何を本当に求めて生きたらよいのか…。
 わたしたちを支える信仰は、死は決してすべての終わりではない、という信仰だと思います。今の世界は、あまりにも目に見えるもの、しかも目先のことばかりに心を向けている世界のように思えてなりません。本当に目に見えないもの、決して滅びないものに心を向けて生きることができますよう、心を込めて祈りたいと思います。




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