毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

関町教会 復活の主日・日中のミサ

関町教会では、今朝の日中のミサで2人の方の洗礼式がありました。
おめでとうございます。

●復活の主日 ヨハネ20・1-9

 復活の主日のミサの福音は空の墓の物語です。復活したイエスが登場するわけではありません。イエスの墓が空になっていて、女性の弟子たちも、男性の弟子たちは皆驚いた、というような話です。
 この空の墓の物語は何を告げているのでしょうか?それは一言でいえば、「イエスの死で、すべては終わってしまったのではない」ということです。何が終わってしまっていないのでしょうか?

 昨夜、わたしが参加した復活徹夜祭では、たくさんの聖書朗読の最初は、創世記1章、人間の創造の箇所でした。その箇所はこう結ばれていました。
 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」
 聖書は、すべてのものは神に造られたもので、よいものだった。最後に造られた人間もよいものだった、と語ります。その「良さ」は別の言葉でいえば、神と人とがしっかりとつながっていて、人と人とも1つになっているという良さです。創世記2章のアダムとエバの物語はそんな楽園の様子を伝えています。

 しかし、3章になって、事態は一変します。この関係が壊れるのです。なぜ壊れるかと言えば、人間が神とのつながりを忘れ、自分さえよければ、と思って、禁じられた木の実を食べたからです。人間は主なる神の顔を避けるようになり、人間と人間との関係もおかしくなります。神との関係を粗末にした人間の運命はどうしようもなく神とのつながりに渇き、人と人との愛にも飢え渇く存在になってしまう。これが聖書の根底にある問題意識なのです。
 そして聖書のほとんどの部分は、この壊れた神と人間との関係、人間と人間との関係を、神がどのように取り戻そうとされたかという救いの歴史の物語です。もちろん、その中心はイエスの物語です。

 イエスが神を「アッバ(お父さん)」と呼び、すべての人を例外なく兄弟姉妹として大切にして生きたこと。それは失われた神と人、人と人との関係を取り戻す働きだったと言えます。しかし、そのイエスに十字架に追いやられていきました。それは表面的に見れば、神からも人からも断ち切られた姿でした。イエスは当時の社会的宗教的指導者たちから排斥され、群衆から見捨てられ、弟子たちからも裏切られて死んでいきました。だれが見ても神が見放したとしか見えなかったでしょう。しかし、そのイエスは苦しみを受け、死に追いやられるまで、父である神に信頼し、出会ったすべての人を、ご自分を十字架につけた人までも愛し抜かれた。最後の最後まで、神との関係、人との関係を生き抜きました。

 イエスに死によってすべてが終わってしまったのではない。それは、この神と人、人と人との関係を取り戻すというイエスの働きが決して死で終わらなかったということだと言ったらいいのではないでしょうか。
 イエスと神との関係は、死によって断ち切られたのではない。イエスは肉体の死を超えて、神のもとに行き、神と完全に一つになられ、神と共に永遠に生きる方となった。これが「復活」ということです。
 また、この天に上げられたイエスは、時間と空間を超え、どんな時代の、どんな国・地域の人とも、ともにいてくださる方となった。これが復活のもう一つの大切な面です。

 そういう意味で、復活とはイエスの神との絆の完成、人との絆の完成なのです。だからわたしたちはそれを今日、喜び祝っているのです。イエスの死によって、神と人、人と人とを1つに結ぶ働きは終わったのではなく、むしろ死を超えて完成したのだ。これ以上の喜び、これ以上の祝いはありません。

 ではわたしたちは?わたしたちの現実はどうでしょうか?
 相変わらず人間はいつも神を忘れ、神との関係をないがしろにしています。人と人との支えあい助け合う関係を忘れ、自分さえよければというところに何度も何度も落ち込みます。どうしてこんなに人間同士うまくいかないのか、悲しくなるような現実がたくさんあります。イエスにおいて、神と人、人と人との関係回復のわざは完成したのではないか、それなのになぜ?

 ヘブライ人への手紙にこういう言葉があります。
 「兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(10・19-20)
 言葉づかいは旧約の神殿祭儀の言葉づかいで分かりにくいですが、イエスの血と肉によって、つまり十字架の死に至るイエスの生涯によって、神との完全な一致にいたる「新しい生きた道」が開かれたというのです。
 復活祭を祝うとは、あのイエスにおいて、神と人・人と人とが一つになる「新しい生きた道が開かれた」ということを祝うのです。そしてだから今日、わたしたちはこの道を歩んでいこうという決意を新たにする、それが復活祭です。

 さて、これから洗礼式を行います。復活祭に洗礼式を行うのは古代からの伝統ですが、そこには深い意味があります。洗礼を受ける人は、イエスに結ばれ、「キリスト者」と呼ばれるようになります。それはキリストの切り開いたこの「新しい生きた道」を歩んでいく人になるということです。神と人との関係を取り戻し、人と人との関係を取り戻すという道です。Iさんは社会人として、家庭の中では夫として父親としてその道を歩んでいきます。M君は学校や教会の友達、家族との関係の中でその道を歩んでいってください。
 どうか神がその道にあって、今日洗礼を受けるお2人を守り導いてくださいますように、心から祈りながら洗礼式を行います。



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