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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第14主日



写真は早朝の雲雀ヶ原祭場地の様子です。
今年も相馬野馬追の季節がやってきました。
今年の野馬追は7月28日(土)、29日(日)、30日(月)の三日間行われます。
くどいですけど、祭りの交通規制のため、29日の原町教会のミサは午後3時からとなります。

●年間第14主日
 聖書箇所:エゼキエル2・2-5/二コリント12・7b-10/マルコ6・1-6
      2018.7.8カトリック原町教会
 ホミリア
 一昨日オウム真理教事件の首謀者である松本智津夫と6人の死刑囚の死刑が執行されたというニュースがありました。
 オウム真理教事件というのは本当におぞましい事件でした。麻原彰晃(松本智津夫)という怪しげな教祖のもとに多くの優秀・有能な人々が集まり、どんどん暴力的な集団になっていきました。教団の動きを暴こうとしていた坂本堤弁護士一家を殺害し、松本支部立ち退き訴訟を担当していた判事を殺害しようとした松本サリン事件などさまざまな凶悪事件を起こしました。教団に捜査の手が及びそうになると警察の捜査を撹乱するために1995年3月20日に地下鉄サリン事件を起こした。あれは本当におぞましい事件でした。
 あのオウム真理教事件によって、日本では宗教に対する不信感・嫌悪感がつのり、宗教離れが進んだとも言われます。確かにわたしたち宗教者は皆、本当に自分たちのあり方を問われたと思います。

 わたしたちカトリック教会だけでなく、多くのキリスト教・仏教・イスラム教諸派は皆、「すべてのいのちの尊重」ということを掲げています。ですから「宗教」を名乗る団体があんな形で、自分たちの組織防衛のために、人のいのちを踏みにじったことに対して、なんとも言えない思いを抱いています。もちろん歴史を見ればどの宗教にも血にまみれた過去があり、その反省の上に、本当に本来の信仰の原点に立ち返った上で、「すべてのいのちの尊重」ということを掲げているのです。
 わたしたちキリスト教は、すべてのいのちを神から与えられたかけがえのないいのちとして尊重したい、尊重すべきだと思っています。オウム真理教事件以来、特にわたしたちはその意識を持つようになったと言うことさえできるかもしれません。自分たちの教団だけが「真理」だと主張し、人間を、他者のいのちを踏みにじる、そんな宗教は絶対にごめんだ。わたしたちはもう一度、そのことを深く心に刻んで、亡くなられた方々のために祈りたいと思います。あの一連の事件の犠牲となられた方々が、神のもとで、永遠の安らぎをえることができますように。

 でも、だからこそ一方で、松本死刑囚たち7人が同じ日に死刑を執行されたというニュースに接して、本当にこれがいのちを尊重することなのかと、強い疑問を持たずにはいられませんでした。
 カトリック教会はもともと死刑を否定していませんでした。しかし、ヨハネ・パウロ2世教皇の『いのちの福音』という回勅から、はっきりと死刑制度反対の態度をとるようになってきました。この回勅が発表されたのは1995年3月25日。偶然ですが、地下鉄サリン事件から五日後のことでした。教皇はこう言います。
 「絶対的に必要な場合、換言すれば他の方法では社会を守ることができない場合を除いては、犯罪者を死刑に処する極端な手段に訴えるべきではありません。しかし今日、刑罰体系の組織立てが着実に改善された結果、そのような事例は皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました」(教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『いのちの福音』56番)。
 死刑以外に社会を、他の人のいのちを守ることができない場合、死刑ということもありうる。でも現代ではそのような状況はほとんどなくなった。だったら死刑はやめるべきだ、ということですね。つまり死刑は、他の人々を守るという人への愛ということ以外の理由では許容できないということです。

 一昨日の死刑はそのような死刑とはかけ離れた印象を与えました。同時に7人を処刑し、それをテレビが大々的に報道する。まるで公開処刑のような、報復や見せしめを目的とした死刑だったとしか言えないような、何かいのちに対する冒涜さえ感じさせるものでした。
 多くの人のいのちを奪ったのだから、死刑にして当然。悪人を排除すれば、正しい安全な社会ができる、そう考えるとすれば、自分たちの組織を守ろうとして殺人を繰り返したオウム真理教のテロリズムと同じ論理に陥ってしまうのではないでしょうか。

 今日の福音にも、人間の狭い心が表れています。イエスが故郷のナザレで歓迎されなかったという話です。ナザレの人々がイエスを受け入れなかったのは、彼らが人間的なレベルでしかイエスを見ることができなかったからでしょう。イエスがだれの息子で、どんな職業で、ということをよく知っていました。狭い仲間意識、地縁・血縁意識の中でしかイエスを見ることができませんでした。そこにこだわったときに、イエスの中にある神とのつながりの部分を見ることができなってしまったのです。
 イエスはそういう地縁・血縁の中で生きていたのではありません。すべての人の親(アッバ)である神に信頼し、だからすべての人と兄弟姉妹として生きる道を歩みました。イエスの兄弟姉妹であることからだれも排除されませんでした。病気や障害のために社会から見捨てられた人、罪人というレッテルを貼られて蔑まれていた職業の人々、サマリア人や異邦人。すべての人は同じ唯一の神の子であり、イエスにとって兄弟姉妹でした。そのことをイエスはまともに、本気で生きようとしました。それが当時のユダヤ社会の秩序を破壊するものと見られたのです。律法の基準で人を測り、社会のウチとソトを作り、ソトの人を排除する。そうやって成り立っていたのが当時のユダヤ社会でした。ナザレの村の共同体もそうでした。イエスはそれを超えてしまったのです。そしてだからイエスは次第にこの社会から排斥され、十字架に追いやられていったとも言えるでしょう。

 すべての人のいのちを尊重する。すべての人を同じ神の子として、兄弟姉妹として尊重する。だから「殺してはならない」のです。だからどんなに極悪非道な犯罪を犯した人に対しても、死刑という殺人をもって報復するのではなく、違う仕方でいのちの尊厳を示し続ける道を探し続けたいのです。簡単な答え・正解といえるものはないかもしれません。でもだからと言って、報復や復讐を肯定する文化を受け入れることはわたしたちの信仰と相容れない、いのちの尊重とも相容れない。
 すべてのいのちが尊重される社会の実現を心から祈りましょう。


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