FC2ブログ

毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第21主日



写真はさゆり幼稚園の子どもたちが種を蒔いたひまわりの花です。
背景の青空がとってもきれいでした。

さて、日曜日のミサの福音はペトロの信仰告白の箇所でしたが、
キリスト信者でない大学生たちがおおぜい参加していたので、こんなふうに話してみました。
何か伝わったでしょうか???

●年間第21主日
 聖書箇所:ヨシュア24・1-2a, 15-17, 18b/エフェソ5・21-32/ヨハネ6・60-6
          2018/8/26カトリック原町教会
 ホミリア
 第一朗読はヨシュア記。紀元前15世紀か13世紀、とにかく大昔の話です。エジプトに住んでいたイスラエルの民は次第に虐げられ、奴隷のような状態に追いやられていきました。そのとき、彼らはモーセを指導者として、不思議な力によって奴隷の地エジプトから脱出しました。それを彼らは、主である神が自分たちを救い出してくださったこととして受け取りました。彼らは、その救いの体験をとおして、主である神を知りました。そしてシナイ山で神との特別な関係を結びます。神はイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は神の民となる。これがシナイ契約と言われるものです。
 この神の特徴は、エジプトで苦しんでいた民に目を留められたということです。出エジプト記3章で、最初にモーセに現れた神はこう語りました。
 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出(す)」
 これがイスラエルの民の出会った神でした。そしてこの神はエジプ脱出後も、荒れ野の旅の中で民を養い、導き続けました。約束の地を前に、モーセがなくなった後、ヨシュアが指導者となり、ヨルダン川を渡って、約束の地に入りました。そして今日の箇所で、ヨシュアは問いかけるのです。
 「あなたたちはこの神を離れるかどうか?ほかの神々のもとに行くのか?自由に選びなさい」と。
 それは客観的にいろいろな神様を比べてみて、どの神様を選ぶか、というようなことではないのです。自分たちの救いの体験を否定するかどうか?その核心にあった主なる神との出会いを否定するかどうか?そこが問われたことでした。

 今日の福音は厳しい場面です。イエスの言葉に多くの弟子がつまずき、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と言われています。何とも悲しい場面です。そして、残った弟子に向かってイエスは、「あなたがたも離れていきたいか?」と問いかけるのです。
 ここでも問われているのは、イエス様かブッダか、ムハンマドか、そんなふうにどの教祖がいいか、選ぶような問題ではない。弟子たちがイエスによって示されたこと、イエスと共に体験した救いの出来事を離れるかどうかということです。
 イエスによって示された世界。それはこの数週間ミサで読まれてきたヨハネ福音書6章で言えば、5つのパンと2匹の魚の世界です。神は飢え渇く人々を決して見捨てておかない。イエスは大群衆を前にして、わずかなパンしかなかったとき、そのパンを取って、神に賛美と感謝をささげました。一人一人を、どんな人をも決して見捨てない神に対する信頼がそこに表されていました。そしてイエスはそのわずかなパンと魚を大群衆と分かち合いました。神に信頼して、お互いが持っているものを分かち合う中に本当の豊かさがある、イエスが示されたのはそういう世界でした。パンと魚の出来事は一つの象徴的な出来事ですが、そこにイエスの福音の根幹にあることが表されているとも言えます。それは、本当に神がいつくしみ深い方であること、そしてだからわたしたちも互いを尊重して、互いを大切にして生きようということ。問われているのは、この福音の世界から離れて行くかどうかです。

 「あなたがたも離れて行きたいか」この問いにペトロはこう答えました。
 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 わたしたちは毎回ミサの中で、このペトロの言葉を借りて、聖体拝領前の信仰告白をしています。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう」
 マタイ福音書16章のペトロの信仰告白の言葉の影響もあって、今日の聖書本文を少し変えていますが、ほとんど同じ言葉です。実は伝統的にはこれとは違う言葉でこの信仰告白はされてきました。マタイ福音書8章の百人隊長のしもべのいやしの物語で百人隊長が言う言葉です。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕(しもべ)はいやされます。」この「しもべ」のところを「わたしの魂はいやされます」と変えて、聖体拝領前に唱えて来た伝統があります。日本の教会だけ、もっとストレートで分かりやすいペトロの言葉に基づく信仰告白の言葉を使っているのですが、もちろんちゃんとローマ・バチカンの認可を得たものです。

 神がいつくしみ深い父であること、すべての人を限りなく大切にしてくださっている方であること、すべての人は例外なく、神の子としての尊厳を持っていること、どんな人も例外なく、かけがえのない一人一人の人間として尊重されるべきこと。このイエスの福音によってこそわたしたちは救われ、生かされています。
 「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」ペトロの言葉は、このイエスの福音に対する「はい」という答えなのです。わたしたちが毎回ミサの中でしている拝領前の信仰告白の意味も同じことです。イエスの福音に心から「はい」と答える心で、このミサにあずかりたいと思います。


PageTop