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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第22主日



写真は南相馬市原町区にあるわたしの散歩道です。
教会から歩いて10分ぐらいのところに、こんな場所があるんですよ。

4回目の「被造物を大切にする世界祈願日(World Day of Prayer for the Care of Creation)」にあたって
神が作られたこの世界とすべての人が大切にされるよう、心から祈ります。

●年間第22主日(被造物を大切にする世界祈願日)
 聖書箇所:申命記4・1-2、6-8/ヤコブ1・17-18, 21b-22、27/マルコ7・1-8, 14-15, 21-23
         2018.9.2カトリック原町教会
 ホミリア
 たまにしかできないのですが、カリタス南相馬でボランティアやスタッフのために料理を作ることがあります。ここに来る前も自炊はけっこうしていましたが、こんなに大勢のために料理を作ることはあまりありませんでした。それでちょっと変わったのは、料理をするまえに入念に手を洗うことです。もし何かあったら大変なので、丁寧に手を洗うようにしています。まるで今日のファリサイ派のようです。現代人から見れば、どう考えてもイエスの弟子よりファリサイ派のほうが衛生的ですね。しかし、ここで問題になっているのは、どちらが衛生的かというような問題ではなく、宗教的な汚れ、という問題でした。
 今日の福音の中の「汚れた手」というときに使われている「汚れた」という言葉はギリシア語では「コイノスkoinos」です。本来は「汚れた」という意味はなく「共通の」という意味の言葉です。しかし、「ハギオスhagios=聖なるもの」と対比されて「汚れたもの」という意味になります。「聖」というのは神の特性であり、普通の人間のレベルを超えた神だけの特性を表すのがこの「聖」という言葉です。ですからイエスの時代、特別に清められたもの以外の「共通のもの」は「汚れたもの」と考えられたのです。どうでしょうか? あまりピンとこないかもしれません。

 「聖」とか「清め」ということを考えるとき、一つの原点はレビ記17〜26章にあります。この箇所は「神聖法典」とか「神聖法集」と言われ、聖なるものに関する掟が集められています。現代のわたしたちにはそのまま当てはまらないような掟も多いのですが、その根本思想は19章の最初の言葉によく表れています。
 「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者だからである」(レビ記19・2新共同訳とは違う訳です)
 これが根本思想と言ってよい。神が聖であるから、そして神が聖であるように聖なるものになりなさい。この19章の中に、とても有名な掟があります。それは「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(19・18)という掟です。そこでいう隣人は自分に近い人の意味です。17節から「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。」とあって、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」となります。あくまでも身近な人の意味ですね。でも、それでは、同胞じゃない人は愛さなくていいか、というとそんなことはありません。少し後に、こうあります。
 「33寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。34あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」
 外国人であっても同じように大切にしなさい、というのです。
 ここにはまた、もう一つの大切な面が表れています。それはイスラエルの民のエジプトでの体験です。エジプトで外国人としてつらい思いをしたはず、だから外国人であなたたちの間に住んでいる人の気持ちがわかるはず、だからその人たちを大切にしなさい、ということです。さらに言えば、そのエジプトで苦しんでいた民の苦しみを見、叫びを聞き、痛みを知り、だからその民に近づき、助け出してくださった神。その神を知っているのだから、あなたがたもあなたがたのもとに寄留している外国人を大切にしなさい。
 救いの体験をもとに、今どう生きるべきかを示す、これが律法の根本的な教えです。
 神が聖であるから、あなたがたも聖なるものになりなさい。その中心に愛の掟があるということはとても大切なことです。
 
 主の祈りの中で、わたしたちは「み名が聖とされますように」と祈ります。その背景には「人間が神の名を汚してしまった」ということがあります。人間が神を忘れ、自己中心に陥り、神や他の人間や自然を傷つけるとき、神の名は汚されるのです。そこからの回復を祈るのが、「み名が聖とされますように」という祈りです。「神ご自身が、ご自分の名を聖とする」という表現もあります。どうやって神はご自分の名を聖とするか? 神は悪人を滅ぼすことによってご自分を聖とするのではないのです。どんなに神に背いた人間であっても、その人間をゆるし、愛し続け、救うことによって神はご自分が聖であることを表すというのです。「わたしは神であって、人ではない」これが神の聖性です。そしてその神の愛に触れた時、神の聖性に触れた時、人間は本当に神をあがめ、神の聖とすることができるのです。イエスはこの神の聖性を生き抜かれました。それは人を離れて「聖」であることを求める生き方ではなく、あくまでも人とともに生きることをとおして神の聖性に近づく道でした。

 「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者だから、あなたたちは聖なる者となりなさい。」よく似た言葉は新約聖書にもあります。
 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5・48)
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6・36)
 そして、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15・12)
 わたしたちもこの神の聖性にあずかることができますよう祈りながら、このミサをささげましょう。


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