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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第23主日



写真は相馬市原釜にある東日本大震災の慰霊碑です。
すぐ隣は海水浴場で、この夏から海水浴場として再開されました!

●年間第23主日
 聖書箇所:イザヤ35・4-7a/ヤコブ2・1-5/マルコ7・31-37
     20180909カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音で特に印象的なのは、イエスが「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた」(34節)という箇所だと思います。
 「深く息をつき」は他の箇所では「うめく」と訳されている言葉です。
 ローマ書8章。「19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(略)「26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
 人間が本当に神ともつながりを回復したときに、この世界全体が救われるということ。そのとき、この世界のすべてが無意味さから解放されて、神とのつながりの中ですべてのものに意味が与えられる。その救いの完成を待ち望みながら今、すべての造られたものが「うめいている」とパウロは言うのです。わたしたちも救いの完成を待ち望んで、「うめいている」。さらに、このわたしたちの「うめき」と一つになってわたしたちの中に住む聖霊が一緒に「うめいて」いてくれる、というのです。

 今日の箇所の「深く息をつき」が「うめき」だとすれば、イエスのうめきはこの聖霊のうめきと似ていて、苦しみながら救いを求める人々のうめきと重なり、そのうめきと一つになったところから発せられる「うめき」だとも言えるのではないでしょうか。
 うまく言えませんが。イエスがうめく以前に、イエスの目の前にいた「耳が聞こえず舌の回らない人」も苦しみの中でうめいていたのです。イエスには彼のうめきが聞こえたのではないでしょうか。苦しみの中からの、言葉にならない叫びが聞こえていたのではないでしょうか。そのうめきにこたえ、彼のうめきと一つになったところから、今日のいやしの出来事が起こった。そんなふうに感じることもできるのではないか。

 今日の福音から「うめき」ということを強く感じたのは、繰り返し起こっている災害のことがあるからです。豪雨、台風、地震。また多くの犠牲者が出てしまいました。
 その犠牲者たちのうめきを、わたしたちは本当に聞いているでしょうか。
 ルカ福音書13章にはこういうイエスの言葉があります。
 「4シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
 エルサレムにあったシロアムの塔というのが倒れて18人が犠牲になった。事故だったのでしょうか。それとも強風のため?地震のためだったのでしょうか? とにかく当時、人々の話題になった大事件だったのでしょう。それに対する人々の考えはどうだったか。「なぜあんなことが起こったのか」「神様があんな事故を起こしたのか」「だとしたら、あの犠牲者たちはなんか罪を犯していたんじゃないか。その罰じゃないのか」「とにかく自分たちでなくてよかった」そんな反応があったのでしょう。
 それに対してイエスは「決してそうではない」とおっしゃいます。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」この言葉はわかりにくいかもしれませんが、それを一つのメッセージとして受け取れといっているようにも聞こえます。その人々の死は、一つの語りかけ、言い方を変えれば、あの犠牲者たちは実は預言者のようで、彼らは声にならない叫び、うめきをもってわたしたちに何かを語りかけているのではないか。その語りかけをわたしたちが本気で聞くなら、彼らの死は決して無駄にはならない!

 この地域には東日本大震災の慰霊碑がたくさんあります。ここを訪れた人を案内してそれらの慰霊碑を回ることが何度もあります。最近、慰霊碑を訪れるとき、本当にこの人たちがわたしたちに何かを語っているのではないか、と感じることが多くあります。
 予想もしなかったような災害は、思いもかけない仕方で来るということ。高潮も、突風も、土砂崩れも、大規模停電も、全部ありうるということ。絶対に安全だと言われていた原発の事故もありうるということ。だからどう生きるのか。何に備え、何を大切にし、どんな生活スタイルを選ぶべきなのか‥‥そういうメッセージを本当に、残されたわたしたちが聞くならば、その人たちの死は決して無駄にならない。そう感じるのです。

 平和旬間のときに配った「焼き場に立つ少年」の写真がありました。長崎の原爆で死んだ弟を背負って、焼き場の順番を待っている少年の写真です。あの少年も、彼が背中におぶっている亡くなった弟も、預言者としてわたしたちに語りかけているのではないか。広島・長崎の原爆で亡くなった人々、沖縄戦で亡くなった人々。今も世界中で戦争や暴力によって命を奪われている人々。その人々は皆、預言者として、わたしたちに語りかけているのではないか。平和の尊さを、一人一人のいのちの尊さを。
 そのメッセージをわたしたちも聞くように!

 「エッファタ(開け)」という今日のイエスの声は、耳の聞こえない人に向けられた言葉であっただけでなく、そこにいた弟子たちにも向けられた言葉だったのかもしれない。本当にこの人の苦しみのうめき声を聞くようにという呼びかけだったのかもしれない。
 そしてこの「エッファタ」は今日、イエスがわたしたち一人一人に呼びかけている言葉ではないか。声にならない叫びを聞くように。災害や事故、戦争や暴力、病気や貧しさの中で、声にならないうめき声をあげている人々の声を聞く。
 「エッファタ(開け)」というイエスの声を、本当にわたしたち一人一人に向けられた言葉として聞くことができますように。アーメン。


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