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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第25主日



福島のおいしいものシリーズ。
福島市立子山にある燻製工房「木香」の渡辺良弘さんは、何でも燻製にしてしまうすごい人です。
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さて、先週は原町教会のミサがありませんでした。
一週飛びましたが、今週のミサ説教原稿です。

●年間第25主日
 聖書箇所:知恵2・12、17-20/ヤコブ3・16~4・3/マルコ9・30-37
         2018.9.23カトリック原町教会
 ホミリア
 今日、このミサの中でHさんをカトリック教会に迎え入れる式を行います。それに続いて、堅信の秘跡をお授けします。Hさんはプロテスタントの教会で洗礼を受けられました。洗礼は繰り返しません。どの教派であろうと「父と子と聖霊の名による洗礼」は有効だからです。カトリック教会の完全な交わりの中にお迎えすることになりました。
 一番のポイントはカトリック教会の「聖餐」にあずかるということです。聖書の言葉で言えば「主の晩さん」(一コリント11・20)、「パンを裂くこと」(使2・46)。この晩さんにあずかることの意味を今日、ご一緒にもう一度思い起こし、確認したいと思います。

 今日の福音はマルコ福音書の2回目の受難予告でした。イエスは受難に向かって歩んでいます。それはマルコ福音書によれば、徹底して「仕える」道でした。今日の福音にも「仕える」という言葉が出てきますが、イエスの十字架の道の意味を最もはっきりと語る言葉はマルコ10章にあります。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10・45)
 自分を低くして、小さくして、与え尽くすこと、これがイエスの歩まれた道でした。イエスは最後の晩さんの席で、このご自分の思いのすべてをパンとぶどう酒に込めて、弟子たちに託しました。マルコ福音書ではこう書いてあります。
 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコ14・22-24)
 これが聖体のパンとぶどう酒です。エウカリスチア(感謝の祭儀)とかミサと呼ばれ、教会は2000年にわたり、この集まりを毎週日曜日に繰り返してきました。キリスト信者はこのパンとぶどう酒によって養われて続けてきました。

 このパンとぶどう酒が表すのはキリストとの一致そのものです。パウロは言います。
 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(一コリント10・16-17)
 「あずかること」と訳されているのは「コイノニア」というギリシア語。「深く結ばれること、一つになること」を意味する言葉です。キリストに深く結ばれ、キリストと一つになる。同時に一つのパンを分かち合うわたしたち同士が、一つのキリストのからだのうちに一つに結ばれること。

 今ここで共に聖体をいただくわたしたち、目に見える形で集まっているキリスト信者同士が一致するだけでない。
 主の晩さんは、キリストから使徒たちにゆだねられました。キリストの使徒たちからその後継者である司教たちへ。司教たちから新しい司教へ。司教からその協力者である司祭へ、ミサはゆだねられてきた。生きた大きな教会の伝承(トラディション)と結ばれる、そういう2000年の歴史の中の教会との一致の意味もあります。そして、今、ここでささげられているミサは、司式司祭をとおして仙台教区の司教・司祭団とつながり、司教をとおして、ローマの司教(教皇)と全世界の司教団、全世界の教会とつながっている。この大きなつながりも大切です。
 いやいやもっと大きなつながりも大切にしたい。
 イエスはすべての人のためにいのちをささげてくださったのですから、最終的にすべての人が一つに結ばれること。そこに向かっていくのがミサの祈りです。今日もこのミサにはキリスト信者でない方がおおぜい参加しています。とてもありがたいことですが、一緒に聖体をいただくことはできない。その痛みも感じながら、すべての人が父である神の子として一つになるように、すべての人が本当の意味で兄弟姉妹として集うことができるようにと祈ります。それはただ単に皆が洗礼を受ければいい、という意味じゃないでしょう。人間の考えを超えて、神がそのことを実現してくださる、そう信じ、祈りながらこのミサをささげます。

 そして、そのためにわたしたちは派遣されるのです。ミサという名前はミサの最後の「派遣」の言葉から来ています。「ミッション」と同じ語源です。キリストと一つに結ばれて「めでたし、めでたし」じゃない。「感謝の祭儀を終わります。行きましょう。主の平和のうちに」いつも、そこから出かけていくのです。
 すべての人が神の子として尊重されるように。すべての人が兄弟姉妹として生きることができるように。わたしたち一人一人にできることはほんとうに小さなことです。でもキリストに結ばれたものとして生きていく。そのための糧が聖体のパン、わたしたちはそう信じてミサにあずかるのです。
 Hさんには今日、堅信の秘跡もお授けします。堅信の中心テーマは「聖霊と派遣」です。
 復活して弟子たちに姿を現したイエスは言いました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」弱い人間がキリストからの派遣を生きるために、聖霊が与えられる。その聖霊がHさんの上に豊かに注がれますように。


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