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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第26主日



写真は、眞こころサロンの皆さんが作っている「ぞうりストラップ」です。
皆さん、最低1つはお持ちですか?

●年間第26主日
 聖書箇所:民数記11・25-29/ヤコブ5・1-6/マルコ9・38-43, 45, 47-48
         2018.9.30カトリック大河原教会、亘理教会
 ホミリア
 わたしが今いる原町教会の敷地内に、一昨年の12月、カリタス南相馬ができました。カトリック東京ボランティアセンターは、震災の翌年にカリタス原町ベースというボランティアベースを南相馬で始めましたが、ある方の持っている建物の一部を借りていました。その期間があまりに長くなり、これからも福島県浜通りでの活動は続ける必要があるということで、カリタスジャパンの援助で建てさせてもらいました。
 基本はボランティアベースですから、2階はボランティアの宿泊所、1階のホールは朝晩ボランティアとスタッフのための食堂になっています。このホールは日中空いているので、「眞こころサロン」というのをしてもらっています。仮設住宅を出た人たちが集まる場がほしいというので、昨年からお貸ししているのです。毎日来て、「ぞうり」の形のストラップを作っています。売り物というのではなく、これまで支援してくれた人へのお礼のしるしとして差し上げるためです。

 そこに来ているある方は、庭でいろいろは花を育てているのですが、ある日、自分の家から花を持ってきて、教会に飾ってほしいとおっしゃいました。そしてその方は初めて教会に入られました。他の方は自分の畑で取れた野菜をしょっちゅう持ってきてくれています。昼ご飯もサロンの方と一緒になりますが、ちょっとしたおかずをみんなのために持ってきてくれる方もいらっしゃいます。
 被災者として「いろいろしてもらう」というだけの世界ではなく、何か他人のために、自分ができることをしたいと思っている人がおおぜいいます。お互いにできることを相手のためにし合う世界。本当に素晴らしい世界に「混ぜて」もらっている感じがします。

 ボランティアとして来る方の多くもカトリック信者ではないのですが、教会の営繕作業やシスターたちの家の修理のようなことも喜んでやってくださいます。地域の方々やボランティアの方々とそんなお付き合いをしていますから、今日のイエスの言葉はとてもうれしくなりました。
 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
 この人たちはどれほどの報いを神からいただけることでしょうか。いや、本当は将来の報いが問題なのではない。神はこの人たちの善意を良しとしてくださっている、神はそのことをお喜びになるということですね。本当に小さな善意であってもそれで十分。
 なんて広い、大きな心でしょうか。神さまの心は!イエスの心は!
 わたしたちは、キリストをよく知らないという人たちの間で暮らしています。この社会の中で、わたしたちキリスト信者は圧倒的に少数で、周りはほとんどキリスト者ではありません。その中で、キリスト信者にならなければダメだとか、周囲の人を無理にでもキリスト信者にしようとか、そんな見方をしているのではありません。また、その人たちに背を向けて、自分たちさえ救われれば、と思っているのでもありません。
 大切なのは、わたしたちが神様の広い、大きな心を生きること。そうしたら本当に素晴らしい出会いが生まれるのではないでしょうか。

 その神の大きな広い心に反することは何か?
 第一朗読ではモーセの時代、70人の長老がいましたが、自分たちと行動を共にしない人が霊を受けたのを避難した人たちがいました。まるで神の霊を受けることを特権のように考えて、他の人を排除しようとした話です。こういう特権意識は狭い心の表れです。
 第二朗読はヤコブの手紙。富んでいる人たちが貧しい人を踏みつけにしている。そのいのちを奪っている。金の力で自分の思い通りのことができると考える。そして貧しい人のことはないがしろにする、それも狭い心の表れです。
 さらに福音で、弟子のヨハネは自分たちのグループに入っていない人を認めようとしない。このようなグループ意識にも狭い心が表れています。さらに小さいものを軽んじ、つまずかせる態度のことも語られていますが、これも狭い心の結果でしょう。

 イエス・キリストの福音の根本にあるのは、すべての人が神の子としての尊厳を持っているということ。神はすべての人のアッバ(おとうさん)であり、すべての人は神の子であり、互いに兄弟姉妹。だから本当にすべての人を大切にしなければならない、ということです。
 キリシタン時代、「神の愛」を日本語で表すのに、「ごたいせつ」という言葉が使われたと言われます。神の愛とは「神が人間をたいせつにしてくださる」こと。そう言えばわかりやすいですね。でももしかしたら、神は人間をたいせつにしてくださる、ということ以上に、そもそも人間一人一人、どんな人間も本当に大切な存在なのだ、と神様は見ていてくださる、と言ったほうがいいのではないか。
 わたしたちもそうです。なんとか人を愛そう、大切にしよう、確かにそうなんですけれど、それ以前に、本当に神の目から見て、この人は大切な人なんだ、その眼差しを感じながら、わたしたちも人に対して、すべての人に対して同じ眼差しを持って見ることができるか、そこが問われていることなのではないでしょうか。そして本当にどんな人も例外なく、たいせつな存在だと感じた時に、わたしたちは人を本当の意味で大切にできるのではないでしょうか。

 人間の心にはどうしようもなく狭さがあります。それを乗り越える大きな、広い、豊かな世界にイエスは今日、わたしたちを招いてくださっています。その招きに精一杯応えることができますように、ご一緒に祈りましょう。



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