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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第29主日



原町教会の香部屋の棚、あまりに古くてどうにもならなかったのですが、ボランティアのSさんが開かないひきだしを取り外し、塗装し直してくれました。ひきだしのあった部分はシスターEがカーテンを付けてくれて、見違えるようになりました。感謝です。

●年間第29主日、世界宣教の日
 聖書箇所:イザヤ53・10-11/ヘブライ4・14-16/マルコ10・35-45
       2018.10.21カトリック原町教会
 ホミリア
 10、11月の主日のミサでは第二朗読でずっとヘブライ人への手紙が読まれています。7週間続くのですが、なかなかお話しするチャンスがないので、今日話したいと思います。
 この手紙の一つの特徴はイエスを「大祭司」と呼ぶことです。古代イスラエルには12の部族がありましたが、祭司はレビ族と決まっていました。イエスはユダ族でしたから本来、祭司でも大祭司でもありえない。でもそのイエスこそが本当の意味での祭司職を完全に果たされた、という意味でこの手紙はイエスを「大祭司」というのです。
 祭司職の本質は何か。東京教区に澤田和夫という神父さんがいて、今、98歳になられます。昔書かれた文章の中で、澤田神父は祭司職の本質を「橋渡し」と言いました。神殿に仕え、動物のいけにえをささげるのが祭司の表面的な務めですが、そのことをとおして本当に目指しているのは、神と人とを一つに結ぶこと、神と人との橋渡しになることなのです。「橋渡し」のイメージ。神と人との橋渡しになる。そのために必要なことは、一方で神に完全に一致していること、もう一方で人々と完全に一致していることです。

 旧約の大祭司は、その使命を不完全にしか果たすことができなかった、とヘブライ人への手紙は言います。
 「1大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。2大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。3また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。」(ヘブライ5・1−3)
 人間ですから、自分も弱さをまとっているので、弱い人間とはある意味で一致している。でも罪人なので自分のために罪の贖いが必要。そういう面で神との完全な一致がない。

 イエスは違います。徹底的に神の「み心を行うために」来られた(10・7)。だから神との間に断絶がない。神と完全に一致している。と同時に人々とも完全に一致していた。今日の箇所では、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と言われています。またこういう箇所もあります。
 「7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(5・7-8)
 本当にわたしたちすべての人間と同じように試練を受け、苦しまれた。そこにすべての人との一致があります。その意味で、旧約の祭司にくらべてはるかにわたしたちの近くにおられる方なのです。今日の箇所では「罪を犯されなかったが」とあります。これは他の人間と違うこということを強調するための言葉ではありません。完全に神と一致していたことを強調するために言葉です。
 とにかくこのように神と完全に結ばれ、人々と完全に結ばれた方だから、イエスは完全な意味で神と人とを一つに結ぶことができた。この大祭司イエスがいてくださるのだから、わたしたちは大胆に恵みの座(=神ご自身に)近づくことができる。これがヘブライ神への手紙の救いのイメージです。
 
 その中でもう一つ大切な言葉は、「兄弟」という言葉です。2章17節にこうあります。
 「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」
 この兄弟という言葉の中に、イエスとわたしたちの間の本当に深い結びつきが表されています。イエスがわたしたちの兄弟となり、兄弟として生き、兄弟として苦しまれ、兄弟として死なれた。そこにものすごい恵みの世界があります。ヘブライ人への手紙2章11節には、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」という言葉があります。この恵みの大きさをほんとうに感じたい。

 さて、福音はイエスの生き方、十字架の死の意味をもっともはっきりと語る箇所です。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10・45)
 「仕える、僕(しもべ)となる」と言われていますが、それはただ単に人にサービスをするというよりも、自分を低くしていく、虚しくしていくというイメージだと思います。それはもっとも小さな人、もっとも苦しむ人と一つになっていく道だったとも言えるのではないでしょうか。

 神は人間を上から救わないのです。
 何か大きな力をもって、わたしたちを天に引き上げてくださるとか、この世界をがらりと変えてくださるとか、そう期待をしたくなることがたくさんあるかもしれません。でも神様のやり方はそうではない。
 イエスを兄弟として、仕える者として、しもべとして、わたしたちに遣わされたのです。
 それは本当に人間を、あらゆる人を尊重するやり方だったと言えるのではないでしょうか。それはわたしたちひとりひとりが本当にイエスに結ばれ、わたしたち自身も神の子であることに気づかせるためだったと言ったらよいのではないでしょうか。そして、わたしたち自身が神の子としての自覚を持って、兄弟愛(ヘブライ13・1)に生きるため!
 この本当に大きな恵みを今日もミサで祝います。この神の救いの恵みのうちに、わたしたちがイエスとともに、本当に神の子として、互いに兄弟姉妹として生きることができますように。アーメン。


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