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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第30主日



仙台教区第6地区は9つの教会からなっています。仙台市内の4教会と宮城県南部の4教会。そこに福島県の原町教会も入っています。そのため、ときどき、他の教会のミサも手伝わせていただいています。
写真は白石教会の聖堂内部。1950年に建てられたそうで、しっとりとして落ち着いた感じがします。
説教メモはまとまりませんが、一応、記録のため・・・

●年間第30主日
 聖書箇所:エレミヤ31・7-9/ヘブライ5・1-6/マルコ10・46-52
           2018.10.28白石・亘理・大河原教会
 ホミリア
 ガリラヤからエルサレムに向かうイエスの旅も終わりに近づいています。今日の福音の舞台はエリコという町で、ヨルダン川の下流、エルサレムまで30kmぐらいのところにある町です。ここに登場するバルティマイは目が不自由で、物乞いをしていた人だと紹介されています。
 彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫びますが、多くの人は叱りつけて黙らせようとしました。イエス先生がエルサレムの都に向かって旅をしている。その大事なときに、こんな物乞いの人にかかわっている時間はない、弟子たちも周囲の皆もそう感じたのでしょう。しかしイエスは彼の叫びを聞いて立ち止まります。

 「あの男を呼んできなさい」
 だれからも相手にされなかった、邪魔者扱いされていた、このバルティマイの叫びをイエスは聞いてくださるのです。人々は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言います。直訳では「勇気を出しなさい。立ちなさい。あの方があなたを呼んでおられる」です。バルティマイはそれを聞くと「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエスのところに行きます。かれは目が見えずとても貧しい人でした。彼にとってこの上着はほとんど唯一の財産だったことでしょう。寒さをしのぎ、夜はそれにくるまって寝るという大切なもので、いつも肌身離さず、握りしめていたはずです。でも彼はイエスが自分を呼んでくださっている、その喜びを感じたとき、それを手放して、イエスのもとに来ます。「躍り上がる」というのも、考えられないような行動でしょう。普段は目が見えないのですから、自分の安全を守るために慎重に動いていたはずです。その安全さえも彼は手放してしまいます。このバルティマイの喜びを感じたいと思います。
 先々週の金持ちの男は、「持っているものを売り払ってわたしに従いなさい」というイエスの呼びかけを聞いて、悲しみながら立ち去りました。バルティマイの姿はその正反対だと言えます。
 イエスは足を止め、彼に声をかけてくださる。「何をしてほしいのか」。これは先週の福音で、弟子のヤコブとヨハネに質問した言葉とまったく同じ言葉です。かれらが高い地位を望んだのに対して、バルティマイは必死の願い・叫びをイエスにぶつけます。「先生、目が見えるようになりたいのです」イエスはそのバルティマイの叫びにも応えてくださいました。そして彼はいやされ、イエスについていくことになった。
 今日の物語はそういう物語です。だから、だから、何なのでしょう。

 二つのことを感じたいと思いました。
 一つは、わたしたちはこのイエスの呼びかけを聞いているか、ということです。わたしたちは今日もミサに集まりました。それこそ、「あの方がわたしを呼んでおられる」から集まっているのです。「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」でしょうか。いや重い腰を上げて、という方もいらっしゃるでしょう。体調が悪いという方もいるかもしれない。本当は他のことをしなければならないのに、という方もいるかもしれない。でもここに来ました。それは、呼んでいてくださる方と出会うためです。イエスは本当にわたしたち一人一人を大切に見ていてくださり、わたしたち一人一人のためにいのちをささげてくださいました。そのイエスに出会うためにわたしたちはミサに来ています。
 ミサのはじめにわたしたちはいつも「あわれみの賛歌」を歌います。「主よ、あわれみたまえ」。ラテン語のミサだと「Kyrie, eleison」と言いますが、これは実はギリシア語です。今日の福音でバルティマイがイエスに向かって叫んだ「あわれんでください」と同じ「エレエソン」という言葉なのです。初代教会の時代、ミサの言語は地中海沿岸の共通語であったギリシア語が使われていましたが、次第にローマを中心とする地域ではラテン語になっていきました。ただこの「キリエ」だけはギリシア語のまま残ったのです。この「Kyrie, eleison」はただ単にへりくだった回心の祈りというだけでなく、むしろ、神への賛美の言葉として受け取られたのではないかと思います。自分の小ささ、貧しさ、弱さを認め、その自分のありのままを差し出して、「エレエソン」と言うのですが、それは同時にこのわたしに必ず目を留め、このわたしを受け入れてくださる神への賛美でもあるのです。そういう意味でも、今日の福音のバルティマイの全面的な信頼と賛美・感謝はわたしたち自身のものでもあると感じたい。

 もう一つのこと、それはわたしたちも誰かに声をかける立場にもいる、ということです。わたしたちのまわりに誰かから声をかけられることを待っている人がいないでしょうか。
 マザーテレサの有名な言葉を思い出します。
 「現代の最大の不幸は貧困でも病気でもない。誰からもいらない人扱いされることだ」
 日本に来たとき、マザーは「そういう人はインドに来なくても、あなたの近くにいる」とも言いました。それは家族や地域、学校や職場の中にもいるかもしれません。その人に目を注ぎ、声をかけること。それもわたしたちの大切なテーマです。
 わたしの周りにバルティマイはいる。そのことにも気づきたい。

 「彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない」
 今日の第一朗読のエレミヤ預言者の言葉ですが、いやされたバルティマイはまさにそのようにイエスに従いました。わたしたち一人一人の歩みをも、神が支えてくださり、しっかりと、まっすぐに歩ませてくださるよう、このミサの中で祈りましょう。



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