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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第31主日



今年もできました。カリタス南相馬の柿のカーテン!
今年は1,000個を超える数の柿が吊るされて、干し柿になるのを待っています。

●年間第31主日(亡くなった方々の合同追悼ミサ)
 聖書箇所:申命記6・2-6/ヘブライ7・23-28/マルコ12・28b-34
         2018.11.4カトリック原町教会
 ホミリア
 「全力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する」
 この「愛」という言葉ですが、聖書のギリシア語では「神の愛」というときの「愛」は「アガペー」と言います。これをラテン語に訳した言葉が「カリタス」です。その言葉を今の日本語ではふつう「愛」と訳しています。日本語の「愛」は英語のLOVEのように、恋愛の「愛」にも使いますが、日本でも「神の愛」という言い方はずいぶん定着してきたので、だいぶ違和感がなくなっているのかもしれません。言葉が聖書の影響を受けて変わっていく。言葉がキリスト教化されていく。それはいろいろな言語で起こってきたことですし、明治以降の日本語もある程度まで、そうなのでしょう。

 キリシタン時代の日本語とポルトガル語の辞書では、ポルトガル語で「カリタス」にあたる言葉には「ゴタイセツ」という日本語があてられています。これはとても分かりやすい言葉です。神の愛とは「神がわたしたちを大切にしてくださること」そう言えば、誤解の余地がありません。「大切」という日本語は、和製漢語だそうで、もともとは「大いに切る、切迫する」という意味だったそうです。それが、次第に今の「大切」の意味になっていきました。日本語の中でものすごく当たり前の言葉になっていて、わざわざ意味を説明したり、他の言葉で置き換えたりする必要がないほど、自然な言葉だと言えるでしょう。「大切にする」と言えば、それがどういうことか、日本語を話している人にはよく分かるのです。
 「神を大切にしなさい」「隣人を大切にしなさい」そういう掟だと思って読むと今日の福音の言葉は本当によく分かる言葉だと思います。そしてそれは掟であるとか義務であるとか、というよりも、人間として生きる中で最も大切なことだと言うことも、わたしたち皆が感じていることだと思います。イエスの時代の律法学者もよく分かっていたし、今のキリスト者もそうだと思います。

 でも、本当にそうできているか。神を大切にし、人を大切にしているか。それが一番良いことだと知りながら、だれもが不完全にしかできていない。わたしたちは神を信じていると言っても不完全、人を愛していると言っても不完全。その不完全なまま死んでいくしかないのです。
 死ですべては終わる。という考え方があります。今の時代、特にそういう考え方は強いように感じます。目に見えるものがすべてであり、死んでしまえば何もなくなる。だから今の生をできる限り健康に快適に生きて、最期はぽっくり逝きたい。そう願っている人は少なくないようです。死はすべての終わりなのだから、死後のことを考えても仕方ないし、死そのものについて考えても仕方ない。そして死ということに本気で向き合おうとしない。
 
 わたしたちキリスト信者は違います。わたしたちは、わたしたちのいのちがこの世のいのちで完結するものでない、と知っています。この世のいのちを超えて、神のもとで完成する、そう信じています。神とわたしたちのつながり、愛する人とわたしたちのつながりは、死によって断ち切られるようなものではなく、むしろ死を超えて完成していく。わたしたちはイエス・キリストのいのちがそういういのちであったと知っていますし、だからこそ、わたしたち自身の生と死についてもそういう希望を持っています。
 神を信じている、と言っても、その信仰は不完全。人を愛している、と言っても、その愛は不完全。でもその神への信頼も、人への愛も、決してこの世だけのものではない。永遠の神と出会うとき、わたしたちの信仰と愛は完成する。わたしはいつも新約聖書の中の二つの箇所に希望と励ましを感じています。

 「8愛は決して滅びない。…12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(一コリント13章)
 「2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(一ヨハネ3章)
 死によってすべてが終わるわけでない。決して亡びないものがある。わたしたちの神とのつながり、人と人との愛のつながりは、死で終わるものではなく、死を超えて完成する。
 これがわたしたちの希望です。そして、だからわたしたちが今、不完全ながら、精一杯神を大切にし、精一杯すべての人を大切にして生きようとしているのは決してむなしいことではない。このことを改めて今日、深く味わいたい。

 そして今日、亡くなった親しい人のために祈りながら、わたしたちはわたしたち同士の絆は、神のもとで完成する、という希望を新たにしたいと思います。亡くなった人と、わたしたちは神のもとでいつかもう一度出会う。そこで本当の愛と喜びに満たされる。その信頼と希望を抱きながら、亡くなった方々のためにこのミサの中でお祈りしましょう。
 


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