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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第32主日



実りの秋、カリタス農園で、今年は落花生もたくさん採れました。
ゆで落花生が実に美味でした。
掘ってすぐに茹でていただくのですが、日持ちがしないので、食べきれない分は冷凍に。
クリスマスに皆さんにふるまうそうです。

●年間第32主日
 聖書箇所:列王記上17・10-16/ヘブライ9・24-28/マルコ12・38-44
        2018.11.11カトリック一本杉教会・畳屋丁教会
 ホミリア
 今日の第一朗読と福音に共通して登場するのは「やもめ」です。「寡婦(カフ)」とも言いますが、音としてピンと来にくい。「未亡人」という言い方もありましたが、「夫が死んだのにまだ生きている人」という意味ですから、ひどい言葉です。本来は自分を低めて言うことばだったのが、一般化してしまったようです。さすがに今は使わなくなりました。ですからまあ「やもめ」と言っておきます。
 第一朗読は、預言者エリヤと出会った一人の貧しいやもめの話。福音はイエスが神殿で見かけた貧しいやもめの姿。このやもめたちの素晴らしい信仰態度に注目することもできますが、むしろ、神がこのやもめのような人にこそ目を注がれる、ということに注目したいと思います。

 旧約聖書に「やもめとみなしご、寄留の外国人」という人々がいつも三点セットのように出てきます。それは自分を守ってくれる人のいない弱者の代表でした。子どもは親が守ってくれるはずなのに、その親がいない子どもが「孤児=みなしご」でした。古代イスラエルは男性中心の社会でしたから、夫が妻を守ってくれるはずでしたが、その夫のいない女性が「寡婦=やもめ」でした。現代で言えば、虐待されている子どもたちやDV被害女性も似ていると言えるかもしれません。本当は守ってくれるはずの人から危害を加えられているのですから。「寄留者」は外国から来て自分たちの間に住んでいる人ですが、彼らも、当然守ってくれる親戚やコミュニティーを近くにいないので、とても弱い立場でした。現代世界には難民や移住者がとても多くいますが、彼らはやはり弱い立場にいます。福島の放射能汚染のために全国に避難している人たちも似た境遇かもしれません。

 出エジプト記22章に古い律法が伝えられています。
 「20寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。21寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。22もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」
 寄留者の場合、あなたたちもエジプトで寄留者だった、と言われています。あなたがたも寄留者の体験があり、あなたがたにもその人々の辛さがわかるはずだから、ということですが、それだけではない。あのエジプトでイスラエルの先祖が苦しんでいたとき、神が目を留めてくださった。その神の救いを体験したのだから、寄留者を大切にしなければならない、という面があります。

 出エジプト記3章7節で、モーセが最初に神に出会ったとき、神はこう言われました。
 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」
 神は苦しむ人の苦しみに目を留められ、苦しみの叫びを聞く方。人の痛みを知っている方。苦しむ人の叫びを聞く方。助ける人、守ってくれる人がいない弱者の痛みを知る方。これこそがイスラエルの民が出会った神の姿でした。この出エジプト記22章でも、やもめとみなしごについてははっきりと、「彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」と言われています。

 神殿でイエスは多くの人に出会いました。商売をしている人、祭司長・民の長老・律法学者、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派・・・彼らは皆、神殿の中で富や権威を身に帯びていた人々です。イエスはその人々の姿に心を動かされませんでした。最後に出会ったこの貧しいやもめの姿だけがイエスの心を撃つものでした。イエスはこのやもめにこそ目を注ぎます。父である神はこの人の思いを受け取ってくださる、そう確信しています。父である神も、イエスもこの人の上にいつくしみの目を注いでいます。
 神はこの貧しい人々にこそ目を留めてくださる。きょうの第一朗読と福音はそういう神のまなざし、イエスのまなざしを感じさせられる箇所です。

 一方で福音の前半にある、律法学者への批判の言葉の中に、「やもめの家を食い物にし」というのがあります。やもめは自分の権利を守ってくれる夫がいないので、律法学者に頼ることがありました。夫から受け継ぐはずの財産を奪われそうになるとき、取り返してもらわなければならない。ルカ福音書18章のやもめの訴えで、彼女が訴える相手は「裁判官」ですが、律法学者もそのような争いの仲裁役を引き受けていました。「やもめの家を食い物にしている」というのは、助けを求めている、そのやもめに高額の謝礼を要求するということでしょうか。この律法学者のしていることは神の目から見たらどうなのか!とイエスは鋭く問いかけています。

 今日、この神のまなざしを感じたいと思います。
 11月は死者の月とされています。特に今日は東日本大震災から7年8ヶ月の月命日。亡くなられたすべての人のために祈ります。この人々の上に、神がいつくしみの目を注いてくださると信じています。神は苦しみを見、叫び声を聞いてくださる方。そう信じて、亡くなった方々を神のいつくしみのみ手にゆだねます。

 今日は七五三のお祝いもします。イエスのもとに来た子どもたちを弟子たちは追い払おうとしました。子どもは、律法の基準では価値がないものと見なされていて、イエスの弟子たちさえも子どもを邪魔者扱いしました。しかしイエスはその子どもを大切な神の子として見て、抱いて祝福しました。現代でも、戦争、病気、貧しさに苦しむ子どもたちがいます。豊かな国でも大人の都合に振り回されている子どももいます。その子ども一人一人に注がれる神のまなざし、イエスのまなざしを感じながら、子どもたちに祝福を授けたいと思います。
 
 そしてわたしたち自身、神のこのまなざしの前に立つ者です。わたしたちに向けられた神のまなざしも、大きないつくしみの眼差しです。しかし同時にその眼差しに応えて生きているか、ということも問われます。それはわたしたち自身が周囲の人々に、特に弱い立場にいる人々にどのようないつくしみの目を注ぐかという問いなのです。


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