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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第33主日



写真は宮城県南にあるカトリック大河原教会の聖堂内部です。
1915年に建てられたそうです。小さいけれど、歴史あるすてきな教会!

●年間第33主日、貧しい人のための世界祈願日
 聖書箇所:ダニエル12・1-3/ヘブライ10・11-14, 18/マルコ13・24-32
       2018.11.18大河原教会・亘理教会
 ホミリア
 この2週間ほど、いろいろと用があって東京まで行ったり来たりしていました。福島県浜通りや宮城県南とはずいぶん違うなあ、と改めて感じさせられました。教会だって、今回行ったのは東京カテドラルとか、イグナチオ教会とかいう巨大な教会。大河原も亘理も原町もそれぞれ可愛くて愛着がありますが、この辺の教会に馴れていると、都会の大きな教会に行ったとき、圧倒される気がします。
 ガリラヤの田舎者だったイエスの弟子たちも、エルサレムの都の壮大な神殿に圧倒されました。マルコ13章1節にこうあります。
 「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』」(1節)

 先週の福音の箇所の続きです。先週の箇所はやもめの献金。イエスはエルサレムの神殿に行き、その境内で当時の社会的・宗教的指導者たちと対決し、彼らの中に何も真実なものを見出せなかった。そして最後に出会ったあの貧しいやもめだけがイエスの心を撃った。イエスは「もうここにいても仕方ない」と神殿を見捨てるかのように出て行くのです。
 それに対して弟子たちは違いました。彼らはその立派な建物に見とれてしまう。心を奪われてしまう。「これこそ確かなもの」と感じたのでしょうか?しかし、こう続きます。
 「イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』」(2節)
 イエスが言うのは、これも滅び去るもの、これも過ぎゆくものであって、これが本当に頼りになるものではない、ということです。そしてイエスはエルサレムの東にあるオリーブ山という小高い山に登られ、そこからエルサレムの町と神殿を見ながら話し始めます。イエスが語ったのは、これから起こることです。偽預言者が現れ、戦争、地震、飢饉が起こり、さらに弟子たちへの迫害も起こる。エルサレムの神殿と町も完全に破壊される。そして今日の箇所になります。

 すべては過ぎ去る。その中で過ぎ去らないものがある。滅びないものがある。
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」
 これが今日のイエスの約束です。
 イエスの言葉をマルコ福音書の中で思い起こしてみましょう。マルコ福音書でのイエスの第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。マルコ福音書はイエスの長い説教をあまり伝えていません。たくさんの言葉が伝えられているわけではない。でも具体的に出会った貧しい人、病人や障害者、弱い立場の人の人への励ましの言葉はたくさんあります。
 「清くなりなさい」「子よ、あなたの罪はゆるされる」「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」「真ん中に立ちなさい」「手を伸ばしなさい」「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたをあわれみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない」「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」「タリタ・クム(=少女よ、起きなさい)」「よろしい、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」「エッファタ(=開け)」
 弟子たちに向けて語られた言葉もたくさんあります。「わたしについてきなさい」「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」「皆に仕える者になりなさい」「すべての人のしもべになりなさい」
 そのすべての言葉。そこに込められたイエスの思い。すべての人、特に弱い立場に置かれた人に対するイエスのいつくしみの心・・・それは決して滅びない。

 すべては過ぎ去り、滅び去っても、決して滅びないものがある。それは今のわたしたちにとって、何でしょうか?
 パウロは一コリント13章8節で、「愛は決して滅びない」と言いました。これはとても大切なキリスト者の確信です。あらゆるものは過ぎ去っても、愛だけは永遠の価値があるものとして残る。わたしたちはそこに希望と信頼を置いています。さらにパウロのもう一つの言葉も思い出したい。
 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(二コリント4・18)
 今の世はあまりにも目に見えるものを追い求めています。永遠のものではなく、形があり、過ぎ去るものを追い求めています。いかに良いものを手に入れ、いかに便利に快適に生活するか。わたしたちキリスト信者もある程度までそういう現代の風潮に流されていますし、確かにわたしたちにとっても目に見えるさまざまなものがある程度は必要です。しかし、同時に、決して滅びないもの、過ぎ去らないものは何か、そう問い続けて生きるのが、わたしたち信仰者の生き方なのだと思います。
 わたしたちが永遠に過ぎ去らないものを求めて歩み続けることができますよう、ご一緒に祈りましょう。



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