FC2ブログ

毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

王であるキリスト



写真は関西の某修道院からいただいた聖歌番号掲示板です。
(番号入れ替え中のため、ちょっと変になっていますが・・・)
立派なものを、どうもありがとうございました。

●王であるキリスト(祭)
 聖書箇所:ダニエル7・13-14/黙示録1・5-8/ヨハネ18・33b-37
           2018.11.25カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしは左利きなのに、右手で字を書きます。絵は右手では描けないので、左手で描きます。子どもの頃からそうしてきたせいでしょうか。字も下手だし、絵も下手(言い訳?)。兄はすごく絵がうまかったので、コンプレックスを感じていました。そんなわたしが一度だけ小学校の図画工作の時間に褒められたことがあります。画用紙に、リンゴとミカンとバナナを絵を貼る、という課題が出ました。リンゴもミカンもバナナも最初からその形に切ってあって色もついているのです。ただそれを一枚の画用紙に貼るだけ。まあたいていの子どもは一列に並べたり、三角形に並べてみたりしていたのですが、わたしはりんごとみかんを右側に少し重ねて置き、左側にバナナを一本置きました。それでうまくバランスが取れたのです。構図がよいと言って、先生から褒められました。一枚の絵として、バランスが取れていたということでしょう。図工で褒められたのは、後にも先にもそれ一回でしたのでよく覚えています。

 下らない思い出話をしていますが、今日は王であるキリストの祭日です。今では王様のいない国はいくらでもありますが、古代の世界では、国が国として成り立つためには、どうしても王が必要でした。王の役割は国を一つにまとめること、国民皆を一つにすることでした。「どうやって皆を一つにするか」、ということを考える時に、わたしはいつも子どもの頃のあの絵の構図のことを思い出すのです。リンゴとミカンとバナナを一つの絵にするにはどうしたらいいか。
 きちんと一列にそろえて並べれば一つになるのか。それでは、それぞれの個性はおし潰されてしまうのではないか。無理やり、全部の果物に向かってリンゴになるように命令して、リンゴにならないものは捨ててしまう。そういう仕方で一つにする、という乱暴なやり方もある。しかし、むしろリンゴはリンゴ、バナナはバナナでそれぞれを生かしながら、互いの関係をうまくする、そういう仕方で一つにするというやり方もあるのではないか。
 古代の王様も、人間の王というのは上から力で押さえつけて人々を一つにしようとしたり、従わないものを排除することによって、一つにしようとしたりしたのです(現代でも?)。でも本当の王はそうではないはず。聖書の世界にはそういう理想がありました。

 詩編72が一つの例です。「ソロモンの詩」という見出しがついていて、王の繁栄を願う詩ですが、次のような言葉があります。
 「2王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。
 4王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。
 12王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。13 弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い14不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。」
 王は貧しい人、弱い人を助ける。本当にすべての人を大切にする。そのことによって、人々を一つにする。これが聖書の語る王、古代イスラエルの王の理想像でした。前提にあったのは、イスラエルの本当の王は神ご自身である、という考えです。神ご自身が何よりもそういう方。すべての人を大切にするがゆえに、特に貧しい者・無力な者に目を注ぐ方。このイメージは羊飼いのイメージともつながっています。羊飼いの役割も、何より群れを一つにすることでした。そのために最も弱い羊を大切にするのです。イエスが語った、見失った羊を探し出し、群れに連れ帰る羊飼いのイメージはまさにそういう羊飼いのイメージでした。このイメージで今日の「王であるキリストの祭日」を祝います。

 わたしたちはそのイエスに再び会える日を待ち望んでいます。毎回ミサの中で主の祈りの後、司祭が唱える「副文」というのがあります。
 「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのいつくしみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」
 この最後の言葉は、イエスが来られて、最終的な救いが完成することを待ち望んでいる言葉ですね。本当に待ち望んでいますか?

 今日の聖書朗読は迫害のコンテキストで語られる言葉。
 第一朗読のダニエル書は、紀元前2世紀、セレウコス朝シリアの厳しい宗教迫害の時代に書かれた。髪を信じれば信じるほど迫害を受け、いのちまでも奪われる。人と人との関係はズタズタに断ち切られている。神はそれを見て、何もしてくれないように感じる。神との関係も断ち切られている。その中で、神は必ず、救い主を送り、裁きを現してくださる。その希望を語るのがダニエル書です。
 第二朗読は黙示録。これは1世紀後半の、ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代。しかし、キリストは必ず、再び栄光のうちに来られる、と切実に神の救いを待ち望んだのです。
 今は、迫害という状況は感じられないかもしれない。でも本当の意味で人と人との良い関係、しっかりとした神とのつながりが感じられているか、そうでもないでしょう。その中で、わたしたちが希望しているのは、本当の意味での神との関係回復、人と人との関係回復だと言えるのではないでしょうか。それはいつか、わたしたちがキリストと再び出会うときに実現する、そう希望し、待ち望みながら、今日、わたしたちの置かれた場で精一杯、神とのよい関係、人と人とのよい関係を生きることができますように。アーメン。


PageTop