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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第1主日



カトリック芦屋教会のプレセピオ。羊がたくさんいるのが、気に入ってしまいました!

●待降節第1主日(宣教地召命促進の日)
 聖書箇所:エレ33・14-16/一テサ3・12~4・2/ルカ21・25-28、34-36
      2018.12.2 兵庫県芦屋教会待降節黙想会のミサ
 ホミリア
 黙想講話では、「ゆるし」とは根本的に「和解=神と人・人と人との関係回復」だという話をしました。最終的な神と人・人と人との関係回復の完成に向かってわたしたちは歩んでいます。これは年間の終わり=終末主日のテーマであり、今日から始まる待降節のテーマでもあります。神と人・人と人との関係、傷つき、失われた関係を取り戻すために、イエスは来られた、神が人となられた、神がご自分の独り子をわたしたちに与えてくださった。このことを深く味わいながら、最終的に本当の意味で神と人、人と人とが一つに結ばれる、その救いの完成を思いながら歩むのです。それがわたしたちの待降節の歩みです。

 わたしは今、福島県浜通りというところにいます。そこは2011年3月11日に起こったマグニチュード9の地震により、南相馬市で最大震度6弱、十数メートルの津波に襲われ、同時に福島第一原発事故による大きな被害を受けました。地震と津波は過去のものになったかもしれない。でも原発事故は終わっていません。そのことは分かっていてほしいと思います。事故を起こした原発の廃炉のめどは立っていません。毎日6千人の人が福島第一原発の廃炉作業にあたっていると言われますが、廃炉までに30年40年はかかる、いやそれで廃炉にできるという保証はありません。汚染水は増え続けています。空気中の放射線量もいまだに年間20mSvという、国の基準を超える地域が広大にあります。この帰還困難地域は今も原則立ち入り禁止です。年間20mSvを下回る地域は、昨年の春までに次々と避難指示解除となりましたが、それでも戻れない、戻らない人がおおぜいいます。特に若い世代の人々、子育て中の人々は放射能に対する不安を抱えていて、戻ってきません。

 そんな現実があります。そこで、人と人が引き裂かれている現実があります。元の家に帰るか帰らないかという決断で、家族の中で高齢の世代と若い世代の間が引き裂かれます。戻ってみてもそこには以前のような近所のつながり(コミュニティー)はありません。元の住まいへの帰還を諦めて、わたしのいる原町区(20km圏外)に住んでいる人も多いのですが、そこでも周りは知らない人ばかりです。その中で孤立していく人もいます。さらに福島のことは日本全国からだんだん忘れられていく。福島だけが日本全体から切り離されて、「福島の問題」にされていく。一方では福島県産の農作物に対する偏見もなくならない。「風化」という問題もあれば、「風評」という問題もあるのです。

 その中にわたしたち、カトリック原町教会とカリタス南相馬があります。そこにシスターや信徒がいます。本当に小さなキリスト教共同体です。なんとか周囲の人々とともに喜びや悲しみ、苦しみや希望を分かち合って歩みたいと願ってそこにいます。わたしたちが目指しているのは、阪神淡路大震災のときに、大阪教区で言われたことと同じだと思います。「地域とともに歩む教会」ということです。

 今年は大きな台風被害が続きました。南相馬でも台風の強風で木が倒れたりしました。ほとんど人が住んでいない、原発から20km圏内の旧警戒区域に家のある人からカリタス南相馬に電話がかかってきました。「隣の家の大きな木が倒れて道をふさいでいる、どうしていいか分からない。だからカリタスに電話した。見にきてほしい」という内容でした。カリタス南相馬から二人のボランティアが行きました。その二人の手にも負えないような大木だったそうです。最終的には倒木の処理は市のほうにお願いすることになりました。でもカリタスから二人の人が来てくれたということで、その人は喜んでくれました。それはわたしたちにとっても貴重な体験でした。さまざまな活動をとおして知り合った地域の人が、何か困ったとき、カリタスに相談してくれる。カリタスだったら助けてくれるんじゃないか、と感じてくれている。これほど嬉しいことはありません。

 「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」これが今日のイエスの言葉です。いろいろたいへんなこと、とんでもないことが起こるだろう。でも最終的に人の子が来られる。イエスは栄光のうちに再び来られる。その時、神と人、人と人とのつながりが完成する。そこに心を向けていなさい。それが「目を覚まして祈りなさい」ということだろうと思います。目先のことに振り回されずに、本当に神がわたしたちをどこに導いてくださっているのか、そのことを忘れず、そのことに心を向けるように。

 簡単じゃないです。2000年前にイエスが来られた時、あの幼子の中に本当に神の救いが、神の導きがあると見ることができた人は、本当にわずかな人でした。ベツレヘムの人々は皆、貧しい夫婦を断ってしまったのです。わたしたちは今年もクリスマスにあの小さな幼子イエスを見つめます。この子の中にこそ、神と人・人と人とを結ぶ、神の大きな計画があるということ、ほんとうの救いの光があることを見つめていこうとするのです。
 そしてだからこそ、あのイエスが再び来られるという希望に支えられて、祈りのうちにその神との出会い・イエスとの出会いを日々感じながら、歩もうとします。それはやはり、わたしたちがそれぞれ置かれた場で、神と人・人と人との関係回復のために働くということです。弱い立場の人、寂しい思いをしている人、孤立してしまいような人とともにどう生きるか、問われます。わたしたち自身がさまざまな困難や苦しみの中にあって、どう祈り続け、どう神とのつながりを持ち続けるか。それも問われることです。南相馬だろうが、芦屋だろうが同じことだと思います。ミサの中で主の祈りの後、司祭が唱える副文の祈りを、待降節の間、特に味わいたいと思っています。
 「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、現代に平和をお与えください。あなたのいつくしみに支えられ、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」

 本当に来られる方に心を向けて、祈りながら、待降節の日々を過ごすことができますように。アーメン。

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