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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第4主日



今年は12月23日が日曜日、何だかとてもあわただしくクリスマスを迎えました。
教会・幼稚園・カリタス南相馬共同の駐車場の地中には、震災の年、幼稚園を再開する前に除染した汚染土が埋まっていたのですが、今になってそれを掘り起こしています。中間貯蔵施設(大熊町、双葉町にある)に運ぶようです。

●待降節第4主日
 聖書箇所:ミカ5・1-4a/ヘブライ10・5-10/ルカ1・39-45
            2018.12.23カトリック原町教会
 ホミリア
 1986年2月、フィリピンで「ピープル・パワー革命」が起きました。フェルナンド・マルコス大統領は選挙で選ばれた大統領でしたが、次第に独裁色を強めていき、国民の支持を失っていきました。1983年、野党の中心人物であったベニグノ・アキノ上院議員が暗殺されると、マルコスがその暗殺に加担していたと考えられるようになり、ますます反発が強くなりました。マルコスは、大統領選挙を行なうことによって、態勢の挽回を図りましたが、ベニグノ・アキノの夫人だったコラソン・アキノが立候補し、そちらに支持が集まりました。選挙の結果はコラソン・アキノの勝利でしたが、マルコスは敗北を認めず、戒厳令を敷きました。それに抗議して多くの民衆が立ち上がり、マニラにあったマラカニアン宮殿と呼ばれる大統領官邸を包囲しました。マルコス夫妻はカトリック教会からも、軍の中枢からも見放されて、最終的にハワイに亡命し、フィリピンは民主化を果たしました。これが「people power」と呼ばれた革命です。

 そのときフィリピンにいた人から、一つのエピソードを聞きました。町に出て抗議した人々の中に、二人のシスターがいました。マルコスの軍隊の戦車がシスターたちに向かってきました。二人は戦車のほうを向いて、跪いて祈り続けました。すると戦車はシスターたちの目の前で止まり、方向を変えて去っていったそうです。一人のシスターは言いました。「怖くてしかたなかったけれど、隣のシスターが動かずに祈り続けていたから、わたしもそうした」もう一人のシスターも言いました。「わたしも怖くて逃げ出したかったけれど、隣のシスターが祈っていたから、一緒に祈り続けた」
 とてもすてきなエピソードだと思います。今、沖縄の辺野古で、基地建設に抗議して頑張っているシスターたちも同じ気持ちではないでしょうか。弱い人間だけれど、誰かと支え合うことができる。そして祈り続けることができる。そこに教会の姿がある、と感じるのです。そして、わたしはいつも、今日の福音の場面を読むたびに、このエピソードを思い出します。

 イエスを身ごもったマリアが、洗礼者ヨハネを身ごもっている、親戚のエリサベトを訪問する場面です。二人は自分のうちに神の救いの計画が始まっていることを感じています。マリアがエリサベトにあいさつをし、その声にエリサベトのお腹の子ヨハネが喜び踊った、と言われます。マリアのあいさつは神の祝福を伝えるあいさつだったことでしょう。それに対してエリサベトのほうは「あなたは女の中で祝福された方」つまり「あなたこそ最も祝福された女性です」と答えました。お互いがお互いを祝福し合います。神の働きが相手の中にある、神がそのみわざを相手の中で行なっていてくださると認め合うのです。

 わたしたちの教会の原点の姿がこの二人の姿の中にあります。
 わたしたちは、自分の中に神がともにいて、支え導いてくれていると信じます。同時に自分だけでなく、他の人の中にも神はいてくださると信じます。お互いにそのことを確認し合いたいのです。現実はいろいろな困難や苦しみに満ちているかもしれません。「それでもやっぱり神はわたしたちとともにいるよね」。そう言って励まし合うのが、教会という集まりです。一人だったらくじけてしまうかもしれません。でも誰かがいて、「それでも神様を信じて生きていこう。それでも愛と希望を持って生きていこう」と励ましあえたら素晴らしいし、そのために教会の集まりがあります。
 必要なことは、お互いの中に働く神の働きに信頼することです。一番いけないのは、「わたしだけに聖霊は働いている」、とか、「わたしのほうがあの人よりも信仰も愛も深い」、そう思い込んで人を認められなくなることです。そんなことないはずですよね。ここに来ている人、いや来たくてもさまざまな事情で来ることのできない人がいますが、どこかで神様、キリストとつながっていたいと願っている、それだけでその人は教会の仲間なのだと、そう信頼したいです。その人の中にも必ず神は働いていてくださるからです。

 もちろん、人は完全ではないし、わたしたちの集まりも完全ではない。社会も問題だらけです。でもだからこそ、一緒に救いの完成を待つのです。エリサベトはマリアに向かって、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言います。それはマリアのことでもありますが、エリサベトも同じように主の約束に信頼して、洗礼者ヨハネの誕生を待ち望んでいたのです。マリアとエリサベトが、一緒に神のことばの実現を待っていたように、祈りながら一緒に待つのです。ここに教会の原型があると思います。

 二人のつながりは二人だけで完結していません。マリアはこのあと「マグニフィカト」と呼ばれる賛歌を歌います。その中で「身分の低い人、飢えた人」とともに神の救いを待ち望んで歌っています。その後の箇所では、洗礼者ヨハネが誕生する場面になりますが、「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて、喜び合った」とあります。周りの人と、苦しみも喜びも分かち合う、それも教会の大切な面です。

 今日の福音のマリアとエリサベトの姿を見つめながら、わたしたちが互いのうちに働く神の姿を認め合い、励まし合い、支えあいながら、本当にすべての人の救いの道具として働く教会になることができるよう、クリスマスを前にして祈りたいと思います。


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