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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の降誕・夜半のミサ



幼稚園の年長さんとその家族、広島の高校生、その他おおぜいの人で聖堂は満杯になりました!
祭壇前の幼子イエスの像を囲んでミサの祈りをささげました。

●主の降誕・夜半のミサ
 聖書箇所:イザ9・1-3、5-6/テトス2・11-14/ルカ2・1-14
             2018.12.24 カトリック原町教会にて
 ホミリア
 皆さん、クリスマスは好きですか?
 日本人は昔からクリスマスが大好きだったみたいです。キリシタン時代に日本に来たルイス・フロイスというポルトガル人の宣教師は、日本の教会の最初のころの歴史を書きましたが、それによると日本で最初にクリスマスが祝われたのは1552年、今から466年前のことでした。場所は今の山口県です。ミサの後に参加者全員に食べ物がふるまわれたそうですが、その当時は12月25日の深夜0時にならなければクリスマスのミサは行えませんでした。それまで劇をして待っていたそうです。劇はアダムとエバの物語。クリスマスにどうして最初の人間=アダムとエバの物語をするんだろうと疑問に思う人もいるみたいですが、そこには深いわけがあると思います。

 旧約聖書の創世記によれば、神は天と地と、そこにあるすべてのものを造り、最後に土のちりで人を造られました。この最初の人がアダムです。アダムは土のちりで形作られ、神がいのちの息を吹き込むと生きるようになりました。そしてアダムはエデンの園という楽園に置かれました。エデンの園ではアダムが働けば、自然はそれに応えて豊かな食べ物を与えてくれました。そしてそこで神はアダムのためにふさわしいパートナーとして女の人を造ってくださいました。その女性はエバと呼ばれています。そういう物語です。それを劇で演じていくのです。
 エデンの園でのアダムとエバは、神との間に調和に満ちた関係があり、自然との間にも調和があり、そして二人の関係も調和に満ちたものでした。これが楽園の状態です。
 しかし、二人の人間は、自分さえ良ければという考えから、神様に背いてしまいました。神がこれだけは食べてはいけないと言っていた木の実を食べてしまうのです。その結果、二人はエデンの園という楽園を追放されてしまいました。

 ルイス・フロイスによると、クリスマスの夜、劇を見ていた人たちは、この楽園追放の場面で、激しく泣いた、ということです。
 分かるでしょうか?当時の日本人は、それを自分たちの現実そのものだと感じたのでしょう。当時の日本は戦国時代でした。室町幕府が弱体化し、地方の武将たちが治める小さな国がたくさんあって、争いあっていたのです。騙しあったり、殺し合うのがあたりまえ、人のいのちは軽く見られていました。貧しい人もたくさんいました。貧しい人は人として尊重されず、本当に見捨てられていた人がおおぜいいました。楽園を追放され、神との関係も見失い、お互いの関係もおかしくなって、さまざまな苦しみにあえぐアダムとエバの姿は、戦国時代の日本人にとって、まさに自分たちの姿だったのでしょう。だから激しく泣いたのです。
 もう一度、あの楽園をどうやって取り戻すのか、どうしたらもう一度、神と人との間の調和、人と人との間の平和が取り戻せるのか、それが聖書の大きなテーマでした。そしてそれは戦国時代の日本の人々のテーマでもあったし、今のわたしたちのテーマでもあると思います。

 キリスト教は、その楽園を取り戻すためにイエスは来られた、神と人・人と人とのつながりを取り戻すためにイエスがこの世界に来てくださった、と信じます。神のひとり子がわたしたち人類の一員となってくださった。こんなに近くに来て、わたしたちの友となり、兄弟になってくださった。ここからもう一度、神と人間、人間と人間、人間と自然との調和に満ちた世界が始まる、そのためにこそイエスは来てくださったのだ。そう信じるのがキリスト教です。だからこうしてイエスの誕生を祝うのです。
 この赤ちゃんは実は何もしてくれません。パンを増やしてくれるわけでも、病気をいやしてくれるわけでも、貧富の差をなくしてくれるわけでもありません。でもこのイエスの誕生からまったく新しい何かが始まったと信じます。それは、大人になったイエスの生き方を知っているからそういうのです。

 イエスは神はすべての人の親だと教ました。イエスの国の言葉では「アッバ」と言います。子どもが父親を呼ぶときの言葉です。今で言えば、「パパ」とか「お父さん」というような親しみをも込めた「アッバ」という言葉でイエスは神を呼びましたし、わたしたちにも同じように神を「アッバ」と呼んでいいと教えてくれました。「主の祈り」はその典型です。今は「天におられるわたしたちの父よ」って言っていますが、イエスが教えた本来の形ではただの「アッバ」でした。アッバである神は、親としてのいつくしみをもってすべての人を例外なく大切にしてくださる、そして、だからわたしたちは皆、兄弟姉妹なのだと教えました。言葉で教えただけでなく、苦しむ人、見捨てられていた病人や障害者、さまざまな形で差別されていた人、すべての人に近づき、その人々の重荷をともに担うことをとおして、神が親であり、わたしたちは皆、兄弟姉妹だということを示しました。最後の最後には、最も苦しむ人々と一つになって十字架でいのちを奪われました。
 神はすべての人の父、わたしたちは皆、兄弟姉妹。この教えは、多くの人に希望と喜びを、生きる意味を与えました。イエスの時代もそうでしたし、400〜500年前の日本人もそうでした。クリスマスはその出発点を祝うのです。

 神のひとり子が「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」として、こんなに小さく、貧しい姿で世に来られたこと。それは本当にわたしたちすべての者の兄弟となるためでした。そしてわたしたち皆を親である神のもとに導くためでした。だからクリスマスは大きな招きでもあります。本当に神を親として信頼するように、すべての人を兄弟姉妹として尊重するように。わたしたちはそう招かれているのです。メリークリスマス!


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