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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖家族



写真は原町教会の聖家族です。

「驚くべき交換(admirabile commercium)」って聞いたことありますか?
くわしく知りたい方は、ベネディクト16世教皇の2012年の新年の一般謁見での講話を是非、お読みください。

ではこの一年の感謝を込めて!

●聖家族(祝)
 聖書箇所:サムエル上1・20-22, 24-28/一ヨハネ3・1-2, 21-24/ルカ2・14-52
       2018.12.30カトリック原町教会にて
 ホミリア
 ある忘年会で、何年かぶりですが、プレゼント交換をしました。輪になって、赤鼻のトナカイを歌いながら、持っているプレゼントを回していって、歌が止まったところのものが自分のものになる、あのプレゼント交換です。昔、教会学校の子どものクリスマス会でやったことがあります。何が来るんだろうとワクワクするのはいいのですが、開けてみると自分のほしいものじゃなかったりして、がっかり、ということが多い。特に女の子の準備したプレゼントが男の子に当たったり、逆に男の子のものが女の子にあたったりするとがっかりして、「何これ?」みたいな反応。そうすると準備した方は傷つくのですね。プレゼント交換って、モノも人も大切にしないと感じさせられたことも結構あって、だからやらなくなりました。でも先日のは、大人どうしですから、誰に当たってもいいように考えてくるので、これもまあ悪くないのかな、と思いました。
 クリスマス・プレゼントというのは、神が人間に対する最高のプレゼントとしてひとり子イエスを与えてくださったことに感謝して、誰かに何かをプレゼントするというもの。親が子どもにしたり、1対1でする交換なら本当に心のこもったものになるでしょう。

 さて、プレゼントの話よりも、本当にしたいのは「交換」の話です。クリスマスの神秘を深く味わう教会の伝統的な表現の一つに「驚くべき交換(admirabile commercium)」という言葉があります。commerciumというのは英語のcommerce、commercialの語源になったラテン語で、普通は「商業」とか「交易」と訳される言葉です。でも、元の意味は「交換」なのです。「驚くべき交換」というのは、「神が人性(人間性)をとったことによって、人間に神性(神の性質)が与えられた」ということを言う表現です。すごくわかりにくい表現なので、ほとんど使われませんが、伝統的にはそういう表現がありました。
 「永遠の神のみことばが人となった。神が人間となった。そのことによって、人間に神の尊厳が与えられた」やっぱりわかりにくいですね。もっとくだいて言うと、「神のひとり子が一人の人間としてこられたことによって、すべての人間の中にある神の子としての尊厳が現された」
 すべての人は父である神の子である。これがイエスの確信でした。そしてイエスは、本当にどんな人の中にも神の子としての尊厳があるということを見いだし、それを大切にしてくださいました。その人間の持つ神の子としての尊厳の出発点が、イエスの誕生という出来事だ、そう考えれば少しはわかるような気もします。

 今日、わたしたちはイエス、マリア、ヨセフの家族を祝います。愛に満たされた家庭の模範として聖家族を思い起こし、わたしたちの家庭もそうでありたいと願います。
 その聖家族の祝日の今年の福音箇所はイエスが12歳のときのエピソードです。迷子になったイエスが神殿の中で見つかるという話。両親にしてみれば、この子が特別な子であるということはわかっていても、やはり自分たちの家族の一員として、「わたしたちの子」という見方をしていたのでしょう。当たり前のことです。だからいなくなって心配したのです。でもイエスはわたしが「父の家にいるのは当然」というのです。マリアは不思議に思いました。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」とあります。おそらくこの出来事をとおして、両親は、イエスの中にある神とのつながりの部分を少しずつ感じることになったのでしょう。そして、特別に神から預かった子どもとして、大切に育てていったことでしょう。
 わたしたちはふつう、自分の家族を自分との関係で見ていると思います。自分の子ども、自分の親、自分の配偶者、自分の兄弟姉妹、自分の孫、自分の祖父母などなど。どこかで自分の所有物のように思っていることもあります。「家族だから遠慮はいらない」とか、「家族にならわがままが言える」。それはいい面でもありますが、もしかしたらその言動で、相手のほうは傷ついているかもしれません。
 家族であっても、相手は神のもの。相手の中に、神とつながる部分、本当に神の子としての尊厳を見る。そのことも大切なのだと思います。

 家族の出発点は、聖書によれば、アダムがエバと出会い、二人が結ばれたところにあります。そこで神が言われることは、「人が一人でいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という言葉です。「彼に合う助ける者」というのは「本当にふさわしいパートナー」と言ったらいい。人は一人で生きるものではなく、誰かと支え合い、助け合って生きるもの。そのために家族が与えられる。家族は何よりも神から与えられたものなのです。
 自分の所有物というだけでなく、家族の一人一人は神のもの。そういう感覚を皆持っていると思いますが、でもときどき忘れてしまうかもしれないので、今日、思い出したい。特にこの一年の終わりに、自分に家族が与えられていること、家族でなくても親しい仲間が与えられていること。一緒に生きる人が与えられていること。そのことを神に感謝し、そして一緒に生きてくれている人に感謝する、そういう時でありたい。教会も、カリタス南相馬もある意味で家族のようなものでもあるのです。


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