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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第2主日



今朝、東京から南相馬に戻ってきてのミサ。間に合いました❗️

●年間第2主日
 聖書箇所:イザヤ62・1-5/一コリント12・4-11/ヨハネ2・1-11
2019.1.20カトリック原町教会
 ホミリア
 昨日、東京のある教会で結婚式の司式をしてきました。わたしにとって特に関わりの深い二人でしたので、特別な感慨がありました。二人ともカトリック信者でしたので、ミサの中での結婚式でした。二人が選んだ福音書の箇所がちょうど今日の福音、カナの婚宴の箇所でした。二人ともお酒が好き、お酒の席が好き、ということで選んだそうです。いや、それはないだろう!?

 でもこの箇所は、喜びに満ちたとても素敵な箇所だなと思いました。もちろん、ぶどう酒は救いの喜びのシンボルです。
 水がぶどう酒に変わった、と言いますが、この水は「ユダヤ人が清めに用いる水がめ」に入れた水だったと説明されています。清めは現代の衛生面での清めではなく、宗教的な清めです。本当は水で手を洗っても神の前に清い人間なるわけではありません。でも心の清めを見える形で表すのが水でした。その水が入った水がめが6つ。1つが2-3メトレテス入りだった、と言いいます。1メトレテスは約39リットルとありますから、水がめ1つで100リットル前後あります。それが6つというとたいへんな量になります。これは当時のユダヤ人たちがいかに水による清めということを重んじていたかの象徴なのでしょう。こうして水による清めを重視していくと、イエスを批判したファリサイ派・律法学者のようなところに落ち込みます。マルコ7章で、イエスの弟子たちが洗わない手で食事をするのを見たファリサイ派・律法学者はイエスにこう言います。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」自分たちはちゃんとやっているのに、あの人たちはだめだ、と人を裁くところに陥るのです。いくら手を洗っても本当に心が神につながることはできない。人とつながることもできない。これが律法主義の問題でした。

 イエスはこの水をぶどう酒に変えられた。それは新しい救いの時代の到来を告げる行為でした。本当はぶどう酒が問題なのではありません。結婚は第一朗読や旧約聖書の他の箇所にあるように神と人とが一つに結ばれることの象徴でした。そしてそこには宴がつきものでした。人々がそこに集い、皆で喜びを分かちあっています。ここにある神と人・人と人とが結ばれるイメージが大切なのです。
 本当は酒が問題ではない。お酒そのものが救いになるのではありません。そうではなく、そこにある神と人・人と人とのつながりに救いの喜びがあるのです。この喜びの時代がイエスによって始まりました。わたしたちは、その世界に招かれています。
 どうでしょう。本当にわたしたちは日々、神とのつながりを感じられているでしょうか。本当に人とのつながりを感じられているでしょうか。神と人をつなぐものも、人と人とをつなぐものも、「信頼と愛」です。それをわたしたちは日々感じて生きているでしょうか。
 「信頼と愛」による神とのつながり、人とのつながりということは生きる意味と結ばれています。わたしたちが本当に、神とのつながり、人とのつながりを感じられていれば、その中で信頼と愛を精一杯生きようとしていれば、そこに生きる意味が見えてきます。

 やはり、昨日の結婚式を思い出しています。そこには結婚する二人の間の心のつながりが感じられました。その二人を取り囲む家族や友人の温かい祝福と祈りが感じられました。そして、教会のミサの中で結婚式ということもあって、特に神様とのつながりが感じられました。そこにイエスをマリアがいる。カナの婚礼のような最高の結婚式だと感じられました。本当は酒じゃない、あの二人も本当はわかっていたと思います。
 わたしたちも今日の福音の喜びの雰囲気を感じながら、本当の意味で、日々の生活の中で神とのつながりを大切に、人とのつながりを大切にして生きることができますように。そしてそのつながりの中で、生きる意味と喜びを深めていくことができますように、心から祈りましょう。

 
 

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